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《2001.7月−3》

純愛が運命に負けていく悲劇
【ロミオとジュリエット2001(博多座)】

翻訳:松田直行 演出:釜紹人
7日(土) 12:00〜15:05 博多座 入場料C席\3,150)


 ロミオとジュリエット2001は、純愛が巨大な運命と戦い負けていくという、どうにもならない人間不信を明確に強調したのが新しいといえる作品だ。
 開幕、舞台を覆う巨大な円形の階段と、その内側の回り舞台上の装置に圧倒される。回り舞台を回転させて各場面の装置が作られるが、そこで争う対立する両家の人たちは、巨大な運命の歯車に乗ってどこかに運ばれていく蟻か粟粒のようだ。

 ふたりの愛もそのような運命に抗うことはできない。ここではむしろ、ふたりが命をかけた愛だったのかと思えるようなところさえある。
 ロミオが逆上してティボルトを殺すシーンではなぜか長々と時間をかける。人を殺して動転しているティボルトをロミオがなぶり殺す様は冷静でしつこくて、とても逆上して判断力を失って殺すとはいえない描き方をされる。ティボルトを殺すことの重大さにも気がつかないくらいのロミオのジュリエットへの愛でしかないといえる。
 それくらい演出は醒めた見方をしている。

 かれらの愛を終始応援するのはロレンス神父だけだが、その彼も終幕近くには、墓場でロミオの死体のそばで目を覚ましたジュリエットを見ながら、墓場から連れ出すこともせず自分だけ逃げ帰ってしまう。
 彼のそれまでのヒューマニズムにあふれた行動は何だったのだろうと思わせる。

 そして芝居はロミオの後を追ったジュリエットの死で唐突に終り、原作にある両家の和解までは示唆されない。知ったことかといわんばかりだが、人の信頼と愛情を簡単に信じていいかという問いかけも、ここまでくればむしろ小気味いい。
 しかし述べてきたような視点で全体が必ずしも統一されているわけではなく、純愛を強調する部分があったりで散漫な印象は免れない。

装置中心の舞台に俳優がついていっていないように見えるのはむしろ意図的演出かもしれないが、俳優の存在感は薄い。
 それなりの存在感を示したのはロレンス神父役の藤木孝だけといっていい。牧瀬里穂には「飛龍伝'92」のときのような生気はなくごく普通のできだ。ロミオの山本耕史には気品も存在感も不足している。脇や若手の俳優陣にも個性が感じられなかった。

 土曜日の昼で、1階、2階は70%〜80%の入り、3階は半分以下しか埋まっていない。観客は例のごとく女性が圧倒的に多い。
 今回の公演では目玉となるものがないのがつらいところだが、オリジナルで博多座をひと月満員にすることは至難の技だと思う。

 劇場は立派過ぎるように思う。
 同じような客席数の大阪松竹座や京都南座に比べ空間がぜいたくだ。名古屋御園座の地下食堂街など汚い。新しく立派なのはいいが、コストは大丈夫?と心配になる。
 いい企画を続けていってほしいと思う。


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