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《2001.7月−13》

ワタシノ「えんぎろん」聞いてよ
【風の中の天使たち (テアトルハカタ、M・P・T合同公演)】

原作:中村ブン 構成・演出:中村ジョー
28日(土) 16:00〜17:40 大博多ホール 2000円


〜今回の「風の中の天使たち」の公演におけるテアトルハカタの演技について、Hさんへの手紙としてまとめてみる〜

 「楽屋」の感想、ややきびしく書かせてもらいました。当事者である劇団の方には自分のやり方を理解しないとんちんかんな指摘かも知れませんが、ああいう見方をしている人間もいるということがわかってもらえればいいかと思います。

 きょう「風の中の天使たち」を観ました。子供たちの演技は素直でそれなりでしたが、むしろ全体の楽しさを大人の演技が壊しているのではないかと思いました。
 どちらがいいかというとむしろ子供たちの方がいいのです。何でこのような逆転とも思える現象が起こっているのでしょうか。

 女優さんの演技に絞って見ていきましょう。Hさんはじめ、Mさん、Kさん、MMさんはそれなりの重要な役を割り当てられているのですが、そこだけ完全に浮いているのです。そこだけで一場の作品といえるほどの密度なのですが、それが問題なのです。Hさんの演技はすごいのですが、本人は意識されてなくても、「Hだ、すごいだろう!」というのがみえみえなのです。それは他の女優さんにも共通します。

 それがなぜダメかなのですが、いちばんの問題は、演出の問題でもあるのでしょうが全体の流れとトーンを無視して、全体に協力せず大人の演技がむしろ不協和音にしかなっていないことです。主役は子供たちだと割り切ったほうがいい。
 ではどのように協力していないのでしょうか、それが演技の質とどうからむのでしょうか。

 テアトルハカタの女優さんの演技を一言でいえば、「重い」ということです。これは「楽屋」において、チェーホフも三好十郎も同じように粘りつくようなトーンでしゃべられていたことからもわかります。
 そして演技の「幅が狭い」ということです。Hさんには真船豊や井上ひさしのややどぎつい作品を演らせたら最高だとは思いますが、つかこうへいや鴻上尚史や北村想を演っている姿は想像できませんし、平田オリザや松田正隆など接点を探すのさえ難しいと思えるのです。

 失礼を承知で言わせてもらえば、演技の幅の問題はすなわち劇団の知的レベルの問題であり、しかも一番の問題だと思います。演技とはこうあるべきという思い込みが強すぎて、そこから一歩も出られないのです。このような視野が狭すぎて自己を壊せない演技者には、理想が低すぎるところからの脱出は困難だと思うのです。
 「理想といってもそれはあんたの理想でしょ。テアトルハカタはこれでいいのよ!」と言われればそれまでですが、残念ながら、テアトルハカタの女優さんは蛸壺にはまったような状況に落ち込んでいる、と私は見ています。そこをなんとかぶち破ってほしいと思っているのです。

 そのためにHさんには、「百物語」のまねをするわけではないけれど、いい演出者(福岡在住だと日下部信、川原武浩あたりか福岡女学院の岩井眞實助教授、さらにもう一発迫力のある在京の演出家ならなおいい)を得て、シアターポケットあたりで少人数の観客を相手に、定期的に朗読の会を開かれたらいいなと思います。そのときは聞きに行きます。

 全体的な感想ですが、「風の中の天使たち」の戯曲は装置絶対で時空を飛ばないなど作りも古臭く、人物もストーリーも類型的で魅力の乏しいところを、子供たちの演技でかろうじて見せていたという印象ですが、どうも私の趣味ではありません。

 舞台づくりにも決まりきった発想が横行していて、例えばHさんが担当した衣装ではいいとこの子はドレスというようなところは問題だと思いました。
 さらに、リアリティを主眼とした芝居づくりにもかかわらず、ときどきリアリティが吹っ飛んでしまうような手抜きがあるのも気になります。食堂で正子らが破る雑誌が「TVガイド」じゃ、あれ?と思ってしまう。さらにHさんが泣き崩れることになった山下の絵の余りのおそまつさに笑ってしまいました。ふつうあれじゃ泣けないでしょう。それを無理に演じきるのではなくて、役者がちゃんと意見を言って演出と議論すべきことではないでしょうか。

 以上、「楽屋」に引き続き勝手なことを書きました。文句ばかりで、「ファンじゃないのなら見るな!」と言われそうですが、少しでも参考になれば幸いです。


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