冒頭のサカモトがごみとして捨てられている場面から始まって、降りしきる雪で終るまで、鮮烈な各場面のイメージは強烈な印象を残すのに、全体的には晦渋で、感動を拒否しているようにさえ見えるという作品だ。
ごみ問題という現実に肉薄した上で、その世界を語るごみ清掃業者のほか、ごみ教団や記憶喪失の弁護士を配して、重層的に大きく脹らませる。
親と子や、恋愛関係などの人と人との関係、エピソードとエピソードとの関係が入り組み、わかりやすいという作品ではない。核心に行けないもどかしさを解決する鍵は何だったのだろう。
不法の投棄されたごみの山の前で、ごみ清掃業者にごみの現状を簡潔に話させる。
その後ごみ教団の集会で、供物として教祖であるパパに奉げられるごみを評することで、気まぐれで物を買い気まぐれでごみを増やすことが軽く告発される。
社会的な問題としてのごく一般的な告発はほぼここまでだ。だが、芝居はこれからが本番となる。
まずごみ教団だが、告発はしても教祖が受け入れられるごみは6、7人の教団構成員分だけで、もともと解決能力はない。にもかかわらず、信者の六女(実は教祖のほんとの娘)が空のごみ袋を奉げると、教団から追い出してしまう。
教団に娘を捜しにきた夫婦や、だんだん記憶を取り戻していく弁護士がからみ、教団は活動しにくくなっているが、ごみの中から大金を発見してしまい万事休す。
その後、再び集まったごみ教団の構成員に、幹部タドコロは毒を吸わせ自分も自殺してしまう。
生き残った者は、降りしきる雪のなかにたたずむ・・・。これは、明確な関係や明確な目的がなく、ごみの海を漂いつづける人たちの、切ない物語だ。
女ミナトがからんできた男を線路に突き落としたのはほんとうに事故だったのか、弁護士サカモトはなぜ記憶喪失になってごみとして捨てられていたのかなど、放置されたままだ。
にもかかわらずなぜか、登場人物の死も生も思いも受け入れてしまう。衝撃ではあるが、違和感は少ない。
そのようななんとも不安定、不分明な状況を増幅させているのが、揺れ動く教祖の支離滅裂さを表現した柄本明の演技だ。
鍛え上げられたものを一度完全にこわし、アドリブと見せるような日常的なしゃべりにまで持ってきたというような多彩さ変幻自在さで、たゆたうものを象徴していて、芝居の構造そのものをさえ揺さぶり倒してしまうようにさえ見えた。
感想をまとめるのに四苦八苦したが、これは坂手洋二がテーマを社会性な問題こに求めても、作劇的には広いところを狙っているからだと思う。それにしても、作品も晦渋だが、この感想の方がよほど晦渋で支離滅裂だと反省する。
内容の勢いでもっていくドキュメンタリー的な「くじらの墓標」や「海の沸点」に比べると、思いを作劇的な面白さに転化した「ブレスレス」は難しかった。「ブレスレス」と同系統の作品では「天皇と接吻」の方がまだわかりやすかった。
しかし、一流の作品のもつ濃密さには迫力があった。このレベルの作品がくる北九州演劇祭がうらやましい。