やっと「ライオンキング」を観た。
ジュリー・テイモアの作品では、映画「タイタス」の方を先に見た。「タイタス」はもともと壮絶な原作をどぎつく強調していて、敵の女にその息子の人肉パイを食べさせるシーンなど、権力争いの残忍さを極限まで描いていた。
「ライオンキング」も、テイモアの極限までつきつめた表現を求めた成果が、常識をみごとに打ち破り、様式美まで高められて、ついには大衆性まで獲得していることに驚嘆する。
原作のアニメとの印象はかなり違う。
それは、主人公・シンバの自分探しとその実現のための権力闘争をより明確にし、心の動きの強調すべきところを大きく強調して、表現にめりはりをもたせたためだろう。
心象を強調するためのイメージの多彩さを、演劇の機能をフルに使い、舞台全体で表現している。それが、アニメより強烈でダイナミックな表現を生み出した。
時間と空間に集約されたパワーにも圧倒される。どのシーンをとってみてもそこに詰め込まれたアイディアはゆうに普通の芝居1本分くらいはある。
そのアイディアの集積度からくる表現の多様性とパワーは、結果としてスペクタクルにまで作品を広げた。その迫力は2階席の最後部の私の席までみごとにとどいた。後半はいつも使っているオペラグラス代わりの単眼鏡をほとんど使わなかったほどだ。
それでも胃にもたれないのは、テンポのいいせいだろう。
装置などで福岡バージョンは苦労があったようだが、舞台転換などみごとだった。 ティモンとプンバーの博多弁も楽しめる。
ちょっと不満なのが、歌が下手なこと。日本語訳であることを勘案しても荒っぽく聞こえ、歌による繊細な表現が不足していたのが残念だ。