前から行きたいと思っていた住吉演舞場に、まさか生活舞台の芝居を観に行くとは想像もしなかった。演出の高尾豊もパンフレットで「(長谷川伸の作品を)上演するなど毛頭考えたこともなかった」と書いている。
それならなぜ上演するのか。引用が長くなるが、「私たちの演劇遺産をとくに日本的(民族的)な伝統的遺産をもう一度見直す必要があるのではないかという思いである。だからと言って短絡的に即沓掛時次郎といっているのではありません。」と、劇団の姿勢と今回の上演意図とを説明している。
ここで抜け落ちている三段論法の2段目は、沓掛時次郎の説明において「時次郎は私たちが失くしたものを、私たちが住む社会を一つひとつ人間の情において照射するのである。」といちおう説明はされている。
前置きが長くなったが、舞台成果はどうかというと、ちぐはぐなところが目立ち、不満が多い。
一つはテンポだ。ポンポンと弾むような、長谷川伸の切れのいいせりふは、時次郎(伏見武)と安兵衛女房おろく(なかむらとし子)などのごく一部だけにとどまり、一向に気持ちよくならない。
もう一つはメリハリだ。この芝居、読んだだけでも泣けてくるし、観客も泣く所はわかる。大衆演劇なら徹底的に情緒的に見せ場を引っぱるだろう。そのようなメリハリがなく、いかにも平板で、盛り上がらない。
キャスティングもあまりうまくはまっているようには思えない。特に、要の役である三蔵女房おきぬに、時次郎をひきつけるだけの魅力がほしい。
さらに、装置の専担者とプロンプターがいないのも舞台進行のテンポを悪くしている。
結果、まったく中途半端に終った。
そして私には却って、大衆劇団がいかに鍛えられているかを改めて認識させてくれることになってしまった。
生活舞台はまだリアリズムを標榜しているのだろうか。このような中途半端さではなくてリアリズムに徹してくれた方がまだいい。
この3月に観た加賀貴行のひとり芝居「足音が聞こえる」の方がよかった。
住吉演舞場は桟敷中心で200人収容。大広間に舞台が付いているといった感じだが見やすい。
観客はほとんどが中高年だ。古くからのファンだろう、暖かい拍手だ。あまり暖かすぎるのも、ひいきの引き倒しにになるのではと、どうでもいいことながら気になった。