チェーホフに取り組むのに徹底的に形から入ったのは、ひとつのアプローチの方法としては評価できる。そしてそれは、生身でない部分では成功しているし、長い芝居をそれなりに引っぱってはいる。
会場に入るとホールの平土間の半分以上と2方の壁と天井を装置が占め、観客は2方から見る。
この中でどのように演じられるのだろうと期待も高まる。
しかし、生身の俳優が登場したとたんに、テンションが下がる。なぜだろう。
演出は、俳優の演技においても形にこだわっているように見える。だから形から入るが、俳優のクセ丸出しのいろんな演技が混在したままで、アンサンブルがいいとはお世辞にもいえない。それは、個々の俳優の演技の幅が狭すぎて演出に合わせきれなかったか、形から入ったことが俳優の演技を殺してしまったからだと思う。
かってその演技を観たことのあるのはマーシャ役の酒瀬川真世だけだが、こんなに硬い彼女の演技を観たことがない。形にとらわれているのがわかる。
ほとんどの俳優が一本調子で、真実をなかなかえぐらない。内に秘めた表現もまだまだだ。その結果、チェーホフらしい存在感はなかなか出ない。特に、肝心のニーナとトリゴーニンが弱く魅力的でないのが痛い。
それでも必死に形にこだわってきたのに、4幕のニーナの突然のメロドラマ風の熱演で、積み上げたものを一気に壊す。演出も我慢しきれなくなって、形よりも観客を泣かすことに方針転換したかと思うほどだ。
チェーホフの正嫡とも思える平田オリザや松田正隆の押さえた表現は、内実を大事にする表現だ。この作品における演技は、形から入って形にとどまり、内実の表現が不足していたのが残念だ。