この舞台、30年前に熱狂的な支持を受けた舞台(現代人劇場公演「東海道四谷怪談」1971年4月〜5月四谷公会堂)を甦らせるというが、入り口の内側にさらに木戸を作って芝居であることを強調したかっての舞台をどう甦らせるのか期待した。
俳優や装置など舞台の規模が違うこともあり、現代人劇場公演ではたぶん人間がぎらぎらしていたのではないかと思う。今の蜷川は何でもありの総合力で勝負だが、ぎらぎらは弱まり、スマートささえ感じる。
その総合力、幕開きから全開だ。
芝居であることを強調するために、回り舞台などの舞台の機構を透けてみえるようにしてしまった。非人たちを演じる役者が裸で回り舞台を回す。浅草の喧騒の中、これからの展開に絡む人物が簡潔に表現される。そのスピードは気持ちがいい。それが以後ずっと続く。
そのテンポのよさがこの芝居の骨格を露にし、大きな枷をはめられた人間の姿が見えてくる。
伊右衛門にとっては、お岩にこだわらなければお梅との結婚に何の障壁もない。舅を殺してまで手に入れたお岩が大きな枷となる。そのような大小の入れ混じった枷を、お岩の幽霊が破壊しつくす。
自分は枷から逃れられずまったく理不尽な死を強制されるお岩としては、幽霊になるのはよくわかる。そのあたりを藤真利子はきっちりと演じた。
竹中直人は、枷から逃れようともがく伊右衛門の小悪党ぶりを柔軟に演じていた。田口浩正の宅悦もいい。
大掛かりな仕掛けをうまく使って、状況をみごとに描き出す演出はすばらしい。
しかし、その演出技法となると、「ていねいに掘り起こして、ぎりぎりまで表現」というようなありきたりの理解しかできない。
立ち見であることがまったく苦痛に感じないほど集中させられたが、帰りの航空機の時間に間に合わすため、広末涼子の見せ場の第4幕と大詰めが観られなかったのが残念。