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《2001.12月−15》

石川蛍の執念が乗り移った舞台
【あの、煌めきの日々よ (博多演劇プロジェクトPAL)】

作・演出:石川蛍
23日(日) 12:00〜14:50 博多座 3600円


 戦後すぐの頃、バスの車掌が自分の命を投げ出して乗客の救助した実話をモチーフにしている。車掌の思いと、車掌の死によって救われた人々の思いを書かなければならない、という石川蛍の執念が乗り移ったような作品だ。
 煌めいていた戦後を書くことで、現代を撃つねらいも込められている。

 ていねいに練り上げられた脚本だ。
 死んだ車掌の仲間のひとり正太が現在は政治家の山岡剛太郎かどうかを確かめるためのミステリーバスの行き先は、彼らが育った長崎県の村。そこで、かれらの戦中・戦後が描かれる。

 戦中、特攻で死ぬ雄介と爆撃で死ぬ雪枝の恋がからむ。何事もなければ恋を成就し幸せな結婚をしたであろうふたりのどうにもならない思い残しが、大人にとっての戦争の残酷さを際立たせる。しかし子供らは貧しいが自由だ。
 戦後は、子供のみならず大人も貧しいが自由だ。煌めきの日々だ。

 長い芝居をもたせる工夫も随所にあり、楽しめる。例えば、雄介の歌に合わせて雪枝が踊る「勘太郎月夜歌」など。
 かれらの仲間にはやや頭が足りないが純真無垢な直子を配して、子供の目のままで大人の世界を照射する。人物の幅も広がった。

 強いて言えば、最初のバス乗客の自己アピールのシーンと、最後の天国のシーンはよけいだ。
 最初のバス乗客の自己アピールのシーンでの役者の登場など、可能性から考えてもほとんどありえないのに、開演中の携帯電話の話まで出て白ける。

 最後の天国のシーンでは、特攻で死んだ雄介に直接的なことばで現代を告発させるのは、作者の気持ちはわからないでもないがぶち壊しだ。どうなんだろう、あの頃が絶対的に良くて今が絶対的に悪いということはないはずだ。
 古代がユートピアだったという幻想と同じようにメルヘンにしてしまうのは、50年という時間は短すぎる。確かに煌めいていただろう、しかし矛盾は山ほどあったはずだ。だから現代と比べてもしかたないことなのだ。

 俳優はメインのところを主にテレビ・ラジオで活躍している人が占める。舞台俳優の切れ味は要らないような演出とはいえ、これがなかなかいい演技だ。演出に応えてじっくりと入れ込む演技では、手馴れた感じで見せる。

 劇場機構をよく使っているのもいい。「金子みすゞ物語」同様、アイディアを詰め込みパワーをかければ見せる舞台になるというのがよくわかる公演だった。


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