福岡現代劇場のアトリエ公演で、岸田国士と宮本研の比較的短い戯曲3本の上演だ。アトリエ公演とはいえ3本のうち2本は猿渡代表の演出であり、特に岸田国士作品の上演では流行の「静かな演劇」を超えるような試みがなされるのではないかと期待した。
しかし、「花いちもんめ」はドラマとしてわかりやすいこともありまあ見られるが、岸田国士作品の2本はレベルの低いひどい舞台だった。
「葉桜」と「紙風船」に共通して言えるのは、演出も役者もその戯曲の主旨をまったくわかっていないし、その構造も読み取れていないことだ。だから岸田国士らしい抒情性や滋味のかけらもないつまらない舞台になった。
「葉桜」は結婚相手についての親娘の想いを、「紙風船」は結婚一年後の夫婦の想いをみごとな会話で描いている戯曲だ。その戯曲を、わざとらしい芝居がかったしかし単調なしゃべりでみごと殺してしまった。俳優のクセ丸出し、生身ギラギラの演技には何の工夫のあとも見られない。
その結果、ていねいに描きこまれた人物の想いはほとんど表現されていない。戯曲のねらった韻律美など望むべくもない。
「静かな演劇」を超えるどころではない。現在の演劇状況から完全に取り残されて、創造性もなくなってしまったとしか思えない。習作かもしれないが、こんなレベルの習作を続けてもどうしようもあるまい。
「花いちもんめ」は、満蒙開拓団の戦後の引き揚げの途中娘を売った母親の話だ。激烈な状況での親娘の情愛と決別をドラマティックに描いていてわかりやすいこともあり、高校演劇でもよく取り上げられている作品だ。
ていねいな演出と演技でそのドラマをそれなりに表現していたが、この母の想いの表現はちょっと違うように思う。中国から戦災孤児として肉親捜しにきた娘に会わず巡礼に出た母の想いはもっと殺伐としているはずだが、表現が単純で叙情的に過ぎる。だから母娘の情を捻じ曲げてしまった戦争の悲惨さと国家の残酷さへの想いが十分には伝わらない。
なぜオリジナルをやらないのだろう。3年ほど前に参加した横内謙介氏の劇作セミナーで、この劇団の鈴木新平氏の作品にただならぬ才能を感じた。
いつまでも既存戯曲による習作ではなく、そのような才能を集めオリジナルをやってほしい。それならどうずっこけていてもまだ評価できると思う。