戯曲は福永郁央作品にしてはわかりやすいが、演出と演技は戯曲の持ち味を表現しきれておらず、なんとも中途半端だ。
深夜のバーで店番しながらラジオ(双方向ラジオで女性が演じる)と戯れているナカムラ。そこにニシカワという男が現れるが、この男、子供のころナカムラを散々いじめた男だった。
ナカムラはニシカワを殺して自殺し、さらにはラジオまで自殺してしまう。
バーテンと客という立場が、かっての いじめられ と いじめ であったという、いちばん肝心の関係がわかるまでに全体の3分の2の時間が費やされるというのは、ピリリとしないセリフが多い前半が特に冗長なためかなという気はする。
それでも後半は、この作者の性向ともいえる厭世的な気分がよく表れていた。ピストルが2丁も出てくるのにはちとうんざりしたが。
中途半端の原因は、演出、演技の方にあるように思う。いずれもその表現の幅が狭すぎるのだ。
演出は、ナカムラの気持ちに呼応するラジオの女性、ナカムラの本心と分身の分離など、戯曲の重層的な仕掛けを重層的に表現しきれていないところが致命的だ。わずかにナカムラとニシカワの関係が露呈したあとのニシカワの独白の時にその気持ちを浮き立たせようとしたところくらいにしか、演出上の工夫は感じられなかった。
ナカムラの中の多面性を表現するには、全体的に単調で淡々とした演出というのは違うと思う。
演技も、演出の限界を超えて突っ込むことはなく、本心と分身の差さえ十分には表現しきれていない。
ナカムラはひょっとして光安にあてて書かれたものではないかという気がしたのは、軽さで狂気を演じられる光安なら、そのあたりをうまく表現したかも知れないと思うからだ。
夜9時半からの公演を観たが、40人ほどの観客だった。
チラシや e-fukuoka 掲載のPHSに電話して予約しようとしたが、連絡がつかなかった。観客にはもう少し親切にお願いしたいと思う。