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《2002.6月−17》

雰囲気の持つ◇情報が抜け落ちた
【櫻の園 (新国立劇場)】

作:A.チェーホフ 演出:栗山民也
29日(土) 13:00〜15:50 新国立劇場・小劇場(東京) 1500円


 新国立劇場のシリーズ「チェーホフ・魂の仕事」のフィナーレであるこの「櫻の園」の公演は、舞台を明治末期の信州に置き換えての上演だ。理由は演出者によると、「登場人物の関係がモザイクのように組み合わさっている戯曲の面白さを、日本の観客により伝わりやすくしようという試み」とのことだが、そのやり方には共感よりも違和感の方が多かった。

 人物とその関係が具体的になり、戯曲の構造がクッキリしたところは成果とはいえるだろう。
 ここでは、没落していく地主と新興の商人との対比では商人を大きく肯定していて、地主と対等以上に描いている。地主とそれに連なる人々のいろいろの思いも、世の中が変わっていくときには無力というよりも、却って足元をすくってしまう、と読める。そういう面では現実が露わに押し寄せる最終幕を除き、演出は地主の意識が変わらないもどかしさをしつこく表現する。それが具体的にわかるという点では演出は成功しているように見える。

 そうは言っても、すばらしいキャストであるにもかかわらず、なぜかしっくりこないで退屈なのだ。
 舞台を日本に置き換えられて、原作の持つ濃密な雰囲気が弱まった。理が勝ちすぎていて味わいが薄くなってしまった。チェーホフの場合に雰囲気とか気分は重要な要素だが、それは多くの内容が微妙に組み合わされたもので、実は多くの情報量を持つものではないかと思い至った。舞台を日本に置き換えたことで、大事な情報が抜け落ちてしまったと感じたのだ。
 松本修や岩松了も舞台を日本に置き換えた作品を作っており、そのあたりをどのように解決していたか気になるが、観ていないので何とも言えない。この作品に即して考えていくしかない。

 なぜ雰囲気が弱くなってしまったのだろう。
 原作と同時代の日本に舞台を移したことがそもそも無理な設定ではないだろうか。当時階級としての地主が没落していたとは思えない。その当時に個人の自我が確立していたとはとても思えず、自由恋愛が頻繁に行われたとはとても考えられない。ましてパリに逃避行などそう簡単にできるはずもあるまい。
 このような形の潤色をするならもっとうまく符合する時代を選ぶべきだと思う。それがなされていないから、人物も原作と潤色の間をフラフラとしていて中途半端なところが目立った。日本では生息できないような人物がそのまま放置されている状態だった。
 翻案ならまだいいのかもしれないが、原作のセリフを極力生かした潤色であることが中途半端な状況を作り出していて、原作の雰囲気を壊してしまったと思う。

 そんな風だから演じる俳優にはむしろ戸惑いが見える。原作の存在感のある人物の棲む環境が無理やり変えられたために、右往左往しているようにさえ見える。
 茅野麗子(原作のラーネフスカヤ)役の森光子を初めて見た。一見華やかだが醒めた演技だと思う。ここぞというところでフッと異界を覗かせるような不思議な演技だ。
 溝呂木栄口(原作のロハーヒン)役の津嘉山正種が圧倒的な存在感だ。しかし全体にはキャストが多彩すぎてまとまりに欠ける感じは否めない。

 1500円のZ席ゲットのために1時間半並んだ。
 100人近く並んでいるのはオペラ「椿姫」の前売りとバレー「ジゼル」のZ席の人もいるためで、「櫻の園」のZ席は昼10枚、夜10枚の20枚だが私は6人目で悠々ゲットできた。こんな入場料で観られるのだから並ぶのもいっこうに苦にならない。


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