この演出をみていたら、その不満と思うところが静かな演劇の構造を際立たせた。そのことは、この演出が戯曲の構造をつかみ切れていない、ということ。それがわかる舞台だった。
どういう風にこの演出を不満に思ったのか。
普通の演劇と静かな演劇との違いは何かというと、大部分のできごとが舞台の上で行われるかどうかということであろう。
普通の演劇では、舞台上で大部分の事件が起きるし、伝聞情報も含めて事件にまつわることは報告される。
静かな演劇は、必ずしもそうはならない。人の大きな決心などが舞台の外で起こる。現実を覗くための窓のような舞台設定で、事件ばかりを追い求めない。だが、その外で起こった事件は人物に確実な影を落とす。その影から、人物に起こった事件をわからせる。
一見作為を排したように見えるが、窓をどこに設定するかという最大の作為が作家に許されている。
そのような舞台の演出はどうなるのだろうか。静かな演劇の表現には、窓としての舞台に表れた雰囲気にどこまでほんとらしさを持たせられるか、がポイントとなる。日常のなかで特別なセリフが強調されることは少ないが、さりげないセリフのなかに思いがこもる。そのセリフは決してわざとらしくやられてはならない。
だがこの舞台の演出は、戯曲がそのように書かれているとは思っていない。だから、そのようなセリフからドラマ部分を集めて飾りつけようとする。かと思えば、さりげないセリフに個性を乗せることなく、あまりに実感なくしゃべらせる。その結果、もっと大きなドラマ、もっと大きな感動を取り逃がしてしまった。
坂の上の家に住む3人の兄弟妹の話。5年前の長崎豪雨で両親をなくした。
兄が恋人を連れてくる。しかし兄はその恋人から別れを告げられる。お盆に、関西に住む叔父がやってきた。調理師になるために予備校をやめた弟と兄のいさかいのなかで、恋人がなぜ兄を振ったかわかる。誤解が解ける。
ここで舞台に表れないものは、兄の恋人の葛藤と、叔父の関西での暮らしぶりだ。
被爆二世ゆえに、自ら身を引いた兄の恋人。それはまあセリフにも表れていて理解できる。その理解できることばかりを安易に盛り上げている。
それから叔父のことだが、演出はセリフに何も込めない。この人物についての想像が何も働いていない。だから、叔父の性格も生活もわからず、やたら物分りだけよさそうな人物に逃げてしまった。この人はそんなに魅力のない人なんだろうか。コンプレックスと寂寥感を抱え、それを強がりややさしさで隠すというこの人の魅力は、ほとんど表現されていない。それは、セリフに何も込めきれない演技にも問題がある。
他の演技では、兄の演技に不満が募る。
しゃべるとき何を考えているのかわからない上に、自分がセリフをしゃべっている時以外には何も表現していない。意識の流れなど知ったことではないという演技だ。それがどれくらい舞台に寒風を吹かせ観客を白けさせるか、演っているほうにはわかるまい。この戯曲に肉薄していないのが読み取れてしまう。
装置も気になった。ぼろい民宿の一室のような味気のない居間で、うしろに広がる世界を感じさせない。
この舞台はきのうときょうで4ステージ。私の観た回は若干空席がある程度だった。