スケールの大きな、深い戯曲だが、そのスケールを満たすパワーが足りないのが不満だった。
集団自殺という重すぎるテーマへのアプローチは、単純ではない構成で大きなスケールでの展開はいいとしても、抽象的な言葉のオンパレードで、その言葉の重装備を突き崩す演出・演技のパワーが足りなくて、重い言葉をモロに受け取る分胃にもたれる。
テーマを端的に表す「皆で行く、一人旅」というのは秀逸。
「皆で行く、一人旅」ツアーに参加する4人の男女。そのなかのふたりの女性にまつわる話が語られる。
ひとりは両親が自殺した女性。もうひとりは鉄道自殺の女性。全体が、この鉄道自殺の女性の夢という構成を取る(ように見えた)。
「皆で行く、一人旅」ツアーは、希望を持ち得ない人が死に場所を求め、死ぬ旅。死はひとりでしか迎えられないから「一人旅」なのだ。
夢と現実をはじめ表現されたものはみな、相対的でリバーシブルなものという相対論でくくられている。
両親が死んだ女性のところに現れる死んだはずの両親。その両親との関係は、いいこと悪いことがないまぜだ。
鉄道自殺の女性。心身二元論を実現していて分身が登場する。その分身は、唯一現実の肯定者である列車運転士に轢かれた女性だが、実際に鉄道事故があったのかさえわからない。時間も入れ混じる。現実の代表である運転士さえ夢の産物かもしれない。
そして極めつけ。ツアコンは、生きなければならないという強迫観念を病気と断定し、人間は生きていなくてもいいという。だからツアコンは「インターネットの路地裏」と自嘲的に語られる集団自殺を幇助する。しかし4人は逆に、生きていなくてもいいという言葉に救われて生きることを選ぶ。
そのような作品表現のために舞台さえもリバーシブルにしつけられている。
そんな風に内容がいっぱいあって、それらは相対化され並存され、結論は絞られない。無理に断定せず並存させることは作者の誠実さであり、問いかけの深さを感じさせる。
そういうすばらしさが素直に舞台に現れないことに苛立つ。表現方法に問題がある。
全体を陰鬱なトーンが支配し、楽しくないのはテーマのせいばかりではない。幾人もの多層の夢が重なり交錯するから、注意深く見ていなければわからないが、なぜか仕組まれでもしたように眠くなってきて、ついて行くのが大変だった。
抽象的な言葉は、観ているほうには一旦取り逃がすと大変なんだが、親切なフォローなどない。そのため、なんとなくわかるが楽しめないという、中途半端な印象になってしまう。抽象的な言葉は定着しないのだ。
だから時々はさまれる歌とダンスのシーンになると、少し楽しめてパワーを少しは感じてほっとしてしまった。しかし全体的にはパワーを押し殺していて、10年以上前の今のスタイルになる前の南河内万歳一座の、やぶれかぶれと見えるエネルギーあふれる舞台がちょっとなつかしくなった。内容だって決して貧弱ではなかった。
今のほうが語る言葉が直裁過ぎ、くどすぎではないか。文学的な言葉をもっと刈り込んで、演劇的なおもしろさを際立たせてくれたほうがいい。
この舞台はきのうときょうの2ステージ。きょうは半分以下の観客だった。