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《2003.6月−20》

心を激しくかきまぜられる
【みつばち (阿佐ヶ谷スパイダースプレゼンツ)】

作・演出:長塚圭史
24日(火) 19:05〜21:35 福岡市民会館 5800円


 普通の演劇人が避けて通る、人の心と生き様のドロドロしたところに敢えて手を突っ込んで、激しく引っ張り出して衆目に曝したという作品だ。
 そのための状況設定がかなり極端だが、それを不自然に思わせないようなパワーに溢れている。多彩な人物の命を賭けたぶつかり合いのすさまじさを、単純ではない構成で描ききったという作品だ。状況設定が比較的自由な時代劇という形を選んだのも、死と隣り合わせに生きる人を描くためと見ればよくわかる。

 島民の多くが「シロコ病」という不治の病に侵された島が舞台。感染していない人たちは高い塀の中に自らを隔離しながら暮らしており、塀の外には死を待つ人たちがいる。
 そこに乗り込んできた浪人の伍郎と嘉寿之新。かれらは島民を助け信頼されて恋される。伍郎は小七の妻イチと恋仲になる。嘉寿之新も女に惚れられるが、しかし実は嘉寿之新は女で元女郎。ふたりはその島を売春の島にしようとする豪商・大島屋二代目から送り込まれた手先だった。伍郎は奇病で奇形の弟を助けるために、この仕事を大島屋二代目から強要されてこの仕事をしたのだった。
 島民は懐柔され、島の女はみんな女郎になる。島に乗り込んできた大島屋二代目は女をひとりひとり抱く。その大島屋二代目は実はシロコ病だった。伍郎に裏切られたと思ったイチは、自ら大島屋二代目に抱かれる。が、伍郎はイチに会うために弟を殺して島に戻ってくる。伍郎は大島屋二代目を切り、シロコ病のイチを抱く。

 長い芝居だが、そんな風に状況は思い切り大きく思い切りスピーディに転換していく。
 盛り込まれたテーマは多岐にわたる。愛のドラマであり、権力のドラマであり、差別のドラマでもある。その激しさを、「みつばち」として生まれかわった男の目を通して、フッと相対化してみせる、というのもすごい。

 愛のドラマ。例えば、イチをめぐる小七と伍郎との決闘についてイチは伍郎に言う、「心のなかで小七を応援した。それは小七が私のために闘うのに、あなたは弟を助けるために闘うから」と。決闘に勝ったあと伍郎は、この言葉に応えて、縛られた家族愛を捨てて弟を切り殺すことになる。この部分だけを取っても、愛のドラマとして一級品だ。
 権力のドラマ。弱者が権力をどう受け止めるか。同じ島民に妻を寝取られてもさほど動揺しない男が、大島屋二代目に妻を抱かれることには耐えられない。権力に陵辱されるのがたまらないのだ。
 差別のドラマ。シロコ病への差別、そして奇病で奇形の伍郎の弟への差別とそれをかばう家族愛。しかし本音が噴き出す。差別を利用しようとする権力者が実は差別されるシロコ病だったと逆転させ、伍郎は差別されている弟を自分の愛のために憎み殺すというように対応を逆転させる。
 描かれた険しい状況を生きる激しい生き様が、心のなかに沈潜していたものが掻き出されてくる思いにまでさせる。

 述べてきたような内容の重さなのに、この作品は大衆劇的だ。それはどうしてだろうか。
 それは、セックスシーンを除けば、大事なことはほとんど舞台の上で起こるからだろう。伍郎の弟殺しでは、切られた首から真っ赤な血が高く噴き出す。また伍郎の大島屋二代目とその手下殺しでも切られた背中から白い血が激しく噴き出す。
 その何でも舞台上でやらせようという姿勢はわかりやすさにつながる。それが長塚圭史が商業演劇でもてる理由だろうが、作品の質を落とさずにやっているのはみごとだ。

 こういう舞台に会うと、感想は印象が新しいうちに、ということには必ずしもならない。自分のなかで徐々に消化し溜まってきてやっと書けるということもあって、感想を書くのに時間がかかる。
 この舞台はきょう1ステージ。広すぎる会場に不満は募るが、それにしても長塚圭史の作品のおもしろさはだんだん浸透してきているようで、広い会場には圧倒的に多い若い女性を中心に、8割くらいの入りだった。これはすごいことだと思う。


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