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《2003.6月−22》

全部分からなくてもいいや
【服部の城 (あなピグモ捕獲団)】

作・演出:福永郁央
28日(土) 19:05〜21:00 ぽんプラザホール 1800円


 よくはわからないところもあったけれど、ものすごく魅力的でおもしろい舞台だった。勢いがあった。
 よくわからないところがあったのは、展開に十分ついていけなかったから。にもかかわらず、散りばめられたもので十分楽しめる。それらがうまく結びついて動き出せばもっとおもしろいんだろうけれど、1回観ただけではそこまではいかなかった。もう1回観たら意図と全体の構造がもっとよくわかるだろう。

 「服部の城」という「そこに一歩足を踏み入れたものは二度と帰っては来ない」城に向かった人たちをめぐる物語だ。
 スギゾーは、行方不明となった恋人サクラを追ってその城にやってくる。新聞記者サリバンは不倫相手でもある編集長の取材命令で、宗教団体の信者たちは教祖様をさがしてその城にやってくる。それらの人を見つめる宇宙人・小川直子。
 2003年を基点として城主「服部」が死んだ2007年までを追っかけるが、それと平行して1953年および2053年という過去と未来の時間が流れる。城のリンゴを食べると他の時間と交信してタイムワープする。
 こう書いても観ていないひとには全然わからないだろう。入り組んでいてそれが転遷するうえに微妙なところも多くあり、あらすじは少ない字数ではとても書けない。

 時間が入れ混じり、基本となる時間が変転し、それらの時間でのできごとが影響しあうとなるともうついていけなくなる。観ているあいだは全体の構造が見えずにイライラするし、観終われば取り逃がしたイメージの多さにイライラする。だが満足感はあるという、何とも不可思議な舞台だ。
 なぜついていけないのだろうか。それは、言葉のイメージと舞台に現れたもののギャップのためだ。それらは互いに、せめぎあい、協働しあい、補完しあい、反発しあって、結果、もつれあっている。それはむしろ福永のねらいとするところで、整理してわかりやすく一本の道筋をつけるようには作られない。舞台には、魅力的な言葉と形を持ったいくつものきらめくシーンが錯綜する。

 作劇上の特徴は、述べたような戯曲の状況設定と言葉のおもしろさを、場面転換の多さとその転換のテンポのよさでうまく表現する。
 しかしよく見ていくと、演出は状況設定を表すのにフォーメーションとテクニカルでカバーすることが多いのに気づく。福永の戯曲の進化に比べて旧態依然の俳優の演技を、演出は信頼していないのではないか。だからテクニカルに逃げ込まなければならないのではないか。こうなったら、俳優の演技を仔細に見ていくしかない。

 この劇団の俳優全体にいえることは、自己の殻を壊せない幅の狭さだ。つねに自分の個性から離れきれず、俳優とまったくかけ離れた人格を表現できない。
 帰っていく自己はあってもかまわない。演じる人物へのアプローチが弱すぎるのがいけない。
 演出は、生きた人間として演じることを禁じているとは思えない。むしろ、演技の幅の狭さをフォーメーションとテクニカルでカバーするしかないと考えているのではないか。
 具体的に、福岡では第一級の演技力を持つと私も思う三人、石井亜矢、遠藤咲子、生見司織の演技を見てみよう。小川直子、月子、サクラをきちんと演じていたとは思えないのだ。遠藤咲子は、月子を演じているあいだも一瞬たりとも遠藤咲子から離れられない。生身の月子が舞台に現れることがないから、演出も観客も舞台のフォーメーションを頼りにせざるを得ない。
 しかもこの三人、役を入れ替えても違和感は少ない。それは三人の個性が似ていることと、その個性を演技が超えきれないことを示していはしまいか。
 男性俳優はさらに演技の幅がせまい。戯曲の魅力がそのような俳優の非力のために十分には引き出されていないと考えるのが妥当のようだ。

 福永戯曲は、美しいが抽象的である言葉がときにうまく伝わらない。作者以外が演出したほうが絶対迫力がありわかりやすい舞台になると思うが、福岡には演出の適任者がいそうにない。
 その戯曲、読んでもおもしろいはずだ。福永はことし30歳だがそうだが、「福永郁央20代戯曲集」でも出版してくれないだろうか。30歳を単なる通過点とするのがいやなら、揺れてばかりいないでぜひ考えてほしい。出版されれば私は買う。

 この舞台は3ステージ。私の観た回は少し空席があった。
 この舞台が3ステージとは、ステージ数が少なすぎはしまいか。もっと観客が増えてもいい。


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