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《2003.9月−11》

挑戦的だが、不満も
【ペンテジレーア (うずめ劇場)】

原作:ハインリッヒ・フォン・クライスト 演出:ペーター・ゲスナー
26日(金) 19:05〜22:05 北九州芸術劇場・中劇場 2500円


 上演時間3時間近いという長い舞台だが、大変おもしろい後半にばかり力が入っているという作品だ。その後半はおもしろいけれど、前半の退屈さ退治こそが演出のほんとうの腕の見せどころではないだろうか。

 「ペンテジレーア」は、ドイツ後期ロマン派の作家・クライストの戯曲で1806年から1907年にかけて書かれている。クライストはフォーゲル夫人との心中でその生涯を終わっているが、この戯曲にはクライストのそのような激しい恋愛体験がみごとなまでに詰まっている。
 ギリシアとトロイの戦争のとき、アマゾネス軍が男を捕虜とするためにギリシア軍に押し寄せてきた。その女王がペンテジレーア。女族であるアマゾネスは子孫を残すために、戦闘の最中に自分の相手を見つけ捕虜にしなければならない。ただ女王・ペンテジレーアには母が決めた相手がいる――それがギリシアの英雄・アキレウス。
 ペンテジレーアはアキレウスに負けて捕虜となったのだが、腹臣・プロートエなどのはからいで勝ったと思い込み、そこでアキレウスとの甘美な恋に酔う。しかし、アマゾネスが盛り返してアキレウスはペンテジレーアを捨てて逃げる。しかしそのあとアキレウスはペンテジレーアに一騎打ちを申し込んでくる。アキレウスがペンテジレーアの捕虜になるためのこの策略もペンテジレーアには通じず、ペンテジレーアの恋は憎悪に変わり、闘う意思のないアキレウスを射殺し、犬どもといっしょになってアキレウスの肉を食い、自死する。

 いかにも重いそのような戯曲を現代によみがえらせるための演出の工夫はたっぷりだ。その演出は形から入る。
 装置はシンプル。メインの舞台の後ろに4本の太い角柱が立つ。舞台にはやはり太い7本の角柱があり、それを俳優自らが動かしてそれぞれの場面を作る。役名のない人物は仮面をつけて登場する。
 そのような工夫をしていても、戯曲の持つ ねっちこさ を整理して振り払うことはできず、なまくらな演技が印象をぼやけさせてしまう。そのため約1時間半の前半はかなりたいくつだ。休憩のあとポツリポツリと空席が増えたというのもわかる。
 しかし後半、急転回するストーリーを演出はきちんとフォローする。直球勝負で、強烈な人物のものすごく強い思いの噴出をそのまま舞台にぶつける。戯曲の力に対し、力で応えようとしている。

 恋愛の表現には不満が大きい。
 愛しておればこそ、裏切られたと思えば何倍もの憎しみに変わる。愛した人を殺した上にその肉まで食らうという、どうしようもなく狂気じみた愛の深さが描けていない。
 その愛の深さはどのようなものだったか。それは、ペンテジレーアにとってはアマゾネスの掟を破ってもいいというほど。アキレウスにとってはギリシアをさえ裏切ってもいいというほどだ。
 行動の原点となるそのような愛にふたりが至るためのやりとりの表現はなぜか平板で淡白で、とてもそこまでの深さがふたりの愛にあるようには見えない。
 これはもちろん演出だけの問題ではなくて、キャスティングや演技の問題もある。

 演技の弱さはいたるところに顕われていた。魅力あふれるとは言い難い。
 ペンテジレーア役の中村優子は役にへばりつくような演技で、この舞台に必要なこの女性の気高さと荒々しさが表現できず、縮こまった人物にしてしまった。肉体のみすぼらしさを強調していて色気も香気も雄雄しさも弱く、激しさもスケールの大きさも出ない。
 アキレウスの大久保倫明は、姿かたちのいい俳優だが、その演技にグイと喰い込むような切れがない。ペンテジレーアへの思いの表現は不十分だ。
 前半だれっぱなしなのは、声がうわずり肉体を貧相にさらすなど、それらしく演じきれない俳優の雑な演技も影響している。後半の充実は、祭司長の山口恭子の異様さにまで至る演技や、腹臣・プロートエの松尾容子の切れのいい演技に助けられた。武将・メーロエの後藤ユウミの語りきかせは説得力があった。

 この舞台はきょうとあすの2ステージ。きょうの初日はほぼ満席で、その観客動員力はすごい。
 このあと、京都と東京での公演がある。


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