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《2003.12月−4》

鮮烈な舞台ながら、最低・最悪の会場運営
【リア王 (SPAC)】

作:W.シェクスピア 演出:鈴木忠志
14日(土) 18:30〜20:10 サザンクス筑後・小ホール 3500円


 久々の鈴木忠志演出作品は、鍛え上げられた俳優の演技で見せた。ただ、洗練されすぎていて、鈴木演出らしいエネルギーは弱まったのではないかという気がした。
 病院のリア―物語はリアの妄想として語られるが、妄想というにはあまりの実在感で、仕掛けがシェイクスピアの力に圧倒されてしまったという印象だ。

 黒澤映画のセットのようなごつい格子戸のある壁が、舞台全体を前後に区切る。壁の向こうは病院で、こちら側はリアの妄想の世界。ふたつの世界を行き来できるのはリアと道化だけ。その戸の開け閉めによる場面転換はみごとだ。

 演出も演技も様式的だ。
 妄想の世界のなんという鮮明さだろう。能のような様式的な俳優の動きも力に溢れていてピシリと決まる鮮やかさだ。女性を演じる男性俳優たちはみんな地声のままだが、その違和感を無理やり力で押し切り、そういう形もありうることを納得させてくれる。
 ラスト、リアはエドマンドの死体の上に、エドマンドに殺されたコーデリアの死体を置く。コーデリアの死体は両手を広げ十字架の形。ふたつの死体のあいだで火花が散る。

 演出は、情を徹底的に排して、理知的に尽きる。
 骨太な構成を、骨太な演技で押しまくり、デテールに情感を込めない。そのことが戯曲のエネルギーを引き出して、「病院のリア」という仕掛けをみごとに壊してしまった。演出の思惑はシェイクスピアの力にからめ取られてしまった。それはそれで成功というべきかもしれない。

 その演出法について考えると、表現の幅は意外に狭い。
 グロスターが断崖から身を投げたと思わせられる滑稽なシーンについて、ブラッドリーは「シェイクスピアの悲劇」(岩波文庫)で、「『オセロー』においてそれ(滑稽なシーンの挿入)は驚くべき、或いは滑稽な、不調和となるであろうが、しかしそれは、『リア王』の精神とはよく調和している」と言っている。
 この滑稽なシーンが絶対に滑稽にならないところに、鈴木演出の限界を見る。集中して単調と見えるところまで磨き上げたという印象の舞台だが、最盛期の鈴木忠志が持っていたグロさまでを含んだ表現の幅は狭まり、猥雑なエネルギーは弱まった。それを進歩と言っていいのかどうか、迷う。

 この公演の会場運営は、最低・最悪。
 いちばん見やすい60席に一席一席、座る人の名前を書いた大きな紙が貼り付けてある。これは、「全席自由」を信じてチケットを買った観客への重大な裏切りだ。社会的である公演を、主催者の恣意で私物化している。公演を自ら汚す主催者の常識のなさを、怒りをもって嗤う。

 この舞台はここでは1ステージ。ほぼ満席だった。


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