チャイコフスキーのドラマチックな楽曲を使い、コンテンポラリーダンスらしくない派手な舞台美術で、目と耳を楽しませてはくれるが、どっか醒めていて、夢中になるほどに引きこまれはしない。
でも、そのあたりがねらい目なのかな、という気もする、というステージだ。
バレーのくるみ割り人形のストーリーは知らずに観たが、この舞台を観てもストーリーはよくわからなかった。バレーだったらそのストーリーはわかっただろうから、バレーに比べて統一的な作品という印象は薄い。チャイコフスキーを素材に遊んでいるという感じで、そのことが時に、心を引っ掻くような表現の鋭さ・斬新さを見せた。
ストーリーにこだわる必要はないのかもしれない。
このステージが、コンテンポラリーダンスにしてはエンターテインメント性が高いと見えるのは、舞台の仕掛けの効果が大きい。
入場すると、大きなサイコロのような半透明の風船45個が、舞台前面を天井まで幕代わりに覆っている。オープニングでそれがドッと崩れる。それらの一部は舞台装置として使われる。
それを手始めとして、美術の椿昇は風船を多用する。4メートルもあるロケット型の風船をラジコンのタンクが引っぱって舞台をゆっくりと横切る。無線操縦の大きな飛行船の模型が、舞台の上から客席の上をゆっくりと旋回する。
ラジコンのタンクが2台、ダンサーと一緒に踊るというシーンもあるが、大きな風船などが主役のあいだはダンスはピタリと止まり、ダンスは相対化される。醒めていると見える所以だろう。
そのダンスだが、動と静のメリハリがついていて、切れがいい。
個々のダンサーの動きはダイナミックだが、シンプルな衣裳(これも椿昇)で体の動きの美しさを見せる振付だ。フォーメーションも遊びごころたっぷりで楽しいし、スクリーンにバックから照らしたダンスは美しい。
ダンサーどうしの小声の話を入れたり、他のダンサーに嫉妬したりという演出で、作品が作り物であることを常時観客に意識させる。観客は現実から離れられないで、夢想と現実のあいだを行き来することで、その差を感得することになる。
このステージはきょう1ステージ。少しだが空席があった。
前列に数人の幼児がいて、そのうるさいこと。幼児にも楽しめるかもしれないけれど、その持久力は30分が限度だ。ちょっとつらかった。