アフター・トークで太田省吾が、「この作品のメッセージが理解できなかった」という観客からの意見に答えて、次のように話した。
「優れた演出家は蛸である(演出家がいっぱいの足で、羊−素直な観客−をからめ取る)」というが、そのような演出家が安定して連れて行くという演劇に対して、観客の積極的な働きかけを前提とした「想像力を起こさせる素材を、想像力をもって観る」という、想像力の双方向性の素材を提供する演劇がある。この「だれか、来る」はそのような演劇で、不健全な感動からの解放をねらっている。
この太田省吾の説明は、ものすごくわかりやすい。それは、観客の想像力を最大限引っぱりだす演劇を作ってきた、太田ならではの説得力がある。
でも、この作品が成功しているかとなると、それはちょっと疑問だ。それは、提供される素材の質が必ずしも高くないということにある。
私はそう思ったが、素材の質についてもひょっとしたら演出は計算してのことではないか、という気もする。この作品は観る人で評価が大きく分かれるというが、その原因は、この素材に対する見方に係わっていると思われる。
人里離れた海岸にある一軒の古い屋敷に、世間から逃れて、完全に”二人だけ”の世界を求めてやってきた男と女。
二人には愛よりも猜疑心が先にたち、”だれか来る”ことの不安を抱えているところに、若い男が登場し、女の心は揺れ動く。
というのはパンフに書かれたストーリーだが、実際の舞台はそう簡単ではない。
この男と女、ほんとうに二人きりになりたいとはとても思えない。それどころか、二人きりになることに辟易している。何で二人がここに居るのかという不安定な気持ちは、観ていて昂進することはあっても、落ちつくことはない。”だれか来る”ことは、”不安”ではなくて”期待”であることがわかる。
男と女のやりとりはチグハグで、二人の気持ちが向き合うことはなく、殺伐とした雰囲気。それを、家をかたどる白い布の装置で強調する。
”期待”の若い男が登場しても、歯切れはよくならない。女は若い男に惹かれるが素直な恋愛感情には遠く、やや隠微な中途半端さがダラダラと続く。
そのような中途半端さ、不安定さこそがこの作品のねらいであるとすれば、成功しているといえるのかもしれない。
そうであるにしても、三人のやりとりは平板に過ぎて、それぞれのシーンが印象的にならない。観客の想像力は、表現の力と無関係ではないはずだ。かっての太田省吾の作品「水の駅」が圧倒的に迫ってきたのは、観客の想像力をかきたてる、実体を感じさせる力があったからだ。この作品では、素材としての質は必ずしもよくない。
俳優の演技の問題もある。すきま風が吹くことの寂寥感を表現しようとして、俳優の演技にすきま風を吹かせている。この決定的に違う状態を混同しているという演技だ。だから観ていてつねに戸惑いがつきまとうことになる。そのことと演出の中途半端さとがあいまって、戯曲の魅力を十分には引き出せていないのではないかと思う。この舞台では、ヨン・フォッセがなぜヨーロッパで最前線の劇作家であるのか、理解できなかった。
この公演は、そぴあしんぐうでは1ステージ。観客の入りは半分ほどで、その年齢層は高い。