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《2004.2月−10》

「新しい美学」であるはずがない
【タイタスアンドロニカス (埼玉県芸術文化振興財団・ホリプロ)】

作:W・シェイクスピア 演出:蜷川幸雄
21日(金) 19:05〜22:10 メルパルクホール福岡 招待券


 蜷川のイメージする力とそれを形にする力はそれなりに認めても、原作戯曲をどうアレンジするかという蜷川演出の世界では、テレビCMでバンバン流された宣伝文句の「新しい美学」など現われるはずもない。しかも、強くドラマが現われた部分は、演出の力だけでなく俳優の力にあずかっているところが多い。
 それでもこの作品では、蜷川らしい強引さで戯曲の魅力を引っぱり出してはいた。

 ローマの将軍・タイタスと、ゴート族女王・タモーラとの壮絶な復讐の応酬の話。
 タイタスの捕虜だったタモーラが王の妃になり、タモーラの長男を殺したタイタスはタモーラから、息子を殺され娘をレイプされて復讐される。それに対してタイタスは最後、タモーラの息子を人肉パイにして、タモーラに食べさせる。

 翻訳ものや再演ものの舞台は当然、新作に比べてオリジナリティは低い。ましてや評価の定まった劇作家の戯曲の上演では、原作戯曲の持っている力とあとで付け加えられたものを、ある程度分けて考えることが必要だろう。
 蜷川はシェイクスピアに何か加えているのだろうか。そうは思えない。現代の視点で、やや極端にシェイクスピアを照射して、その魅力を引っぱり出してはいても、それはもともと戯曲にあった魅力だ。そのもともとあった魅力を、蜷川が創造したと勘違いしてしまうことが、蜷川の評価が高いひとつの理由だ。
 もちろん、演出家が引っぱり出す魅力によって、舞台のおもしろさは大きく左右される。そのことを否定はしない。だがこの戯曲で言えば、強烈な印象を残したジュリー・テイモア監督の映画「タイタス」でもこの舞台でも、根源的な創造性はシェイクスピアのものだということだ。

 蜷川の戯曲の捉えかたと、その形象化のしかたを見てみよう。
 やや極端に強引に、戯曲を『白』のイメージと捉える。それで全体のイメージを統一しようとした企ては成功している。舞台はドロドロせずにある程度乾いており、そのために疾走するようなテンポのよさが可能になっている。しかしそのことが、作品にメリハリが弱く、ずん胴と感じさせてしまう原因だ。例えば、映画「タイタス」で感じたタイタスの絶望感は、この舞台では弱い。
 復讐劇だから、誰が善玉で誰が悪玉ということを強調してもしかたないことなのに、タモーラを悪玉にしすぎも気になる。それはタモーラのふたりの息子を、粗野で無慈悲な徹底的な悪人として描いていることに表われている。
 そんな風にかなりスカスカなのに、蜷川演出は「ちゃんと感情移入しろよ」とせっせと強制するようなところがある。それに乗ってしまうほど私は素直ではない。

 俳優の演技がややいびつなのも気になった。蜷川のイメージについていこうとアップアップしており、形ばかりで、中身を充たしきれていない空疎さも目立つ。
 タモーラの麻実れい、エアロンの岡本健一の存在感はみごと。ラヴィニアの真中瞳もいい。タイタスの吉田剛太郎は軽さが気になった。若い俳優の表現力と存在感のなさが、舞台を薄っぺらにしているところが多い。

 この舞台は17日から21日まで5ステージ。若干空席があった。
 彩の国さいたま芸術劇場の2倍近いのキャパのメルパルクホールで、S席11,500円というのは、彩の国さいたま芸術劇場のS席9,000円に比べて2,500円も高い。他には、メルパルクホールではA席8,400円だけなのに、彩の国さいたま芸術劇場はB席5,000円まである。アゴアシが要るのはわかるが、それにしても条件が悪すぎるのではないだろうか。
 メルパルクホールはセリフの通りが悪すぎる。主催者はわかっているのだろうか。何とかしようとしているのだろうか。とてもそうは思えない。


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