福岡演劇の今トップへ 月インデックスへ 前ページへ 次ページへ


《2004.2月−12》

粗雑さをごまかす姿勢に辟易
【エスキュリアル (GIGA)】

作:ミッシェル・ド・ゲルゲロード 演出:菊沢将憲
21日(土) 16:10〜17:10 青年センター3階 500円


 どうしようもない舞台だ。
 当たり前のことだが、猥雑さと粗雑さとはまったく違う。この舞台は、猥雑さをねらいながら粗雑さだけしかない。その粗雑さをきちんと回避しようと手を打つ姿勢よりも、なんとかごまかそうとする姿勢しかない。
 それにしてもこのレベルの作品を上演するということは、作品のレベルの見究めもできていないということ。公演ごとに作品の質が大きく変動するのがこの劇団の特徴だが、質の悪い作品を容認して上演するこの劇団の審美眼を疑う。

 王の宮殿に死神が忍び込み、宮殿の犬たちは殺されてしまう。それでも王は修行僧の除霊を拒み、道化と役柄を交代して死神を逃れようとする。
 そして、王と交代した道化は、襲ってきた真紅の男に殺されてしまう。王は王にもどる。

 猥雑な雰囲気のなかで猥雑な言葉を叫んだだけでは、絶対に演劇的な猥雑さには至らないことをこの舞台は如実に教えてくれる。王が猥雑な言葉をがなればがなるほど、猥雑さから遠ざかるばかりで白ける。
 ならばどうすれば猥雑さが顕われるのだろうか。それは登場する人物どうしが、相手へのやりきれないおぞましい具体的な思いを、ドラマとしてからめることだ。よほどのインパクトのある演技でもない限り、単純に猥雑なことばを吐いただけで猥雑が顕われるはずがない。でも、どうも戯曲のそういうところをカットしたか、戯曲のそういうところをわざと弱めた、まちがった演出としか思えない。
 装置や衣装や照明についても、猥雑さといえばこう、という常識から一歩も出ない。言葉をほんとうに猥雑にして、装置を思い切りシンプルだが象徴的にするなど、対比させ強調する手法などには思い及ばないらしい。

 演技は力が入りっ放しで一見熱演ふうだが、実はものすごく粗雑だ。粗雑な演技をいくら引っぱっても、まともな状況は顕われない。
 力が入りっ放しなのが、演出も演技もが何も考えていない証拠だ。王と道化が役柄を交代しても、その演技にほとんど変化がない。力が入りっ放しの一本調子が、この戯曲のおもしろさを殺した。
 俳優たちの存在感のなさも気になる。うまくやれば客席から笑いがたくさん起こるはずなのに、キャラクタの存在感からくるユーモアもなく、白けるばかりだった。

 この舞台は、くうきプロジェクト・ワンコインシアターの2月公演で、きょう2ステージ。
 全席さじきで、16時の回の公演は満員だった。


福岡演劇の今トップへ 月インデックスへ 前ページへ 次ページへ