岩松了の演劇の特徴がよくわかる舞台だった。
その特徴は、観客の意識の流れを徹底的に意識し、引っかき回すことも含めて、みごとにコントロールすること。そのための、観客をひきつける状況設定と人物の関係づけは絶妙だ。
やや甘ったるい男女関係に対し、壮絶な状況を対峙させることで、互いを相対化するという構成もみごとだ。
港に近いやや古びたリゾートホテル、そのロビーが舞台。
オーナーのユキ(緒川たまき)をめぐるふたりの男の話を軸に、やくざの親分が娘のためにインドネシアから違法に輸入するワニの話がからむ。やくざの親分と、その子分がふたり。ホテルで客を引く女はユキの先輩で、大きな息子がいる。逗留中の作家は、ホテル従業員の妻と逢引きしている。
岩松了の演劇における「場」と「時間」を見ていこう。
ホテルのロビーという場所でのできごとではあるが、「グランドホテル」的ではない。人物は特定され、話もホテル外のことや過去のことまで広がるなど、その関係も入り組んでいて密である。
人物は、その場所に係わる「お金」と「ワニ」から放射状にからみ合い、さらに人物どうしがからみ合う。ホテルと男(小林薫)へのユキの思いは、現実的な「お金」の問題を無視しては成り立ち得ない。
「ワニ」は、それを運んできたインドネシア人のバイヤー(小澤征悦)がユキのもうひとりの男で、ユキに執心している。その「ワニ」にはみんなかかわらざるを得ない。
そのような「場」を強めるしかけで、濃密な人間関係を現出させる。
「時間」はどうか。ちょっと目にはごく自然な流れのようにも見えるが、したたかなしかけが、ここにもたっぷりと仕込まれている。
観ていて、知りたい欲求が満たされずにくすぶっていることがある。それは興味をつなぐために意図的にやられているが、あまり長くは引っぱらずに謎解きをしてくれる。その謎解きも、セリフのなかでさらりと示すことが多いが、思いが一気に噴き出す重要な謎解きは、じっくりと訴えかけるものになる。
かと思えば、本筋にはそれほど関係のないことを、人物の個性をわからせるなどのために、さりげない会話をけっこうしつこく挿入する。観客は休め!といわんばかりだ。
「時間の流れ」に対して投げ込まれる振動がどう変化するか、心電図や地震計のように測ったとしたら、小さな振動が短い周期で与えられ、ときに中くらいの振動で引っぱられるというような波形になるだろう。
大きな振動は、どこにくるのか。
ここでは、「ワニ」を捕まえようとしたやくざの子分(彼は親分の娘を猛烈に恋している)が、「ワニ」の背中で「行って」しまう、というのが爆弾だ。そしてそれから、子分は「ワニ」に変身しはじめる。その爆発で、現実(らしきもの)と不条理な非現実がパックリと分かれはじめる。ユキのあきらめる恋と、子分の貫く恋が、大きく分岐し主張しねじれあうことになる。それでいながら、同一空間に並存する。
そのような複雑さを、ひとつの時間、ひとつの空間のなかのリアルな表現でやってのけるのが岩松了のすごさだ。
あこがれの緒川たまきは、演技は単調でいまひとつだが、スタイルのよさにもううっとり。娼婦役の片桐はいりが、人のこころを引っ掻くような、いつもながらの圧倒的に幅広い演技で見せる。
この舞台は、北九州ではきょうとあすの2ステージ。1階はほぼ満席だった。