まったく期待はずれの、ひどい舞台だ。
中島かずきが書いているのは、白雪姫の物語の単純な裏返しではない。この戯曲が描いているのは、邪悪な欲望も渦巻く、おぞましさを含んだ、割り切れない世界。そのためのしかけがいっぱい詰め込まれているから、まともに上演すれば、ズシンとどうしようもないほどのやるせなさが残るはずで、それこそが、白雪姫に想を得ながらもそう単純ではない、中島戯曲の真骨頂のはずだ。そこに挑まないで、何のための中島戯曲の上演だろう。
あ〜ぁ、何という単調で、殺伐とした舞台。貧相に痩せ衰えた舞台には、中島戯曲の持つ虚構性の大きさ、深さなどの豊穣さは微塵も感じられない。演出も演技も、パワーがないというよりも、何か基本的なものが欠落しているとしか思えない。
童話「白雪姫」の後日譚。
白雪姫を助けることに成功したはいいが、目標を失ってちりぢりになったリトルセブン。最後のふたりも森の家を発とうとしているところに、レッドローズと名乗る姫が助けを求めてやってくる。
ふたりは、もとの仲間を集めて姫を助けようとするのだが・・・。
この戯曲、いろんなところをけっこう膨らませて、かなり繊細なサブストーリーにいろいろな思いを詰め込んでいる。
例えば、リトルセブンであるフレイムとリキッド。鏡の力を知ったふたりは、それを抑えてくれそうなミラード公爵の手下となって、かっての仲間と敵対する。それが揺れ動き、乗り越え、最終的には仲間と融和する。このふたりの心の動きを、ドラマの展開とあわせて仔細に見ていくだけでも、観客である私は反発したり同調したりと、けっこう激しく揺さぶられることになるだろう。
だが演出も演技も、結果をボソリとセリフで説明するだけ。戯曲が広げた世界を、みごとに無視してくれる。一事が万事、こんなふうだ。
演技は演出と密接に結びついいているから、演技のつまらなさに演出の悪さが大きく影響しているが、演技そのものの問題もある。
例えば、山下晶(ミラード公爵)と山内まり(クリスタニア女王)のいずれにも、妖しさがまったくないのは、演出の問題もあるし、引くことを知らない演技の幅の狭さにも原因がある。
完全に俳優の責任であるのは、しゃべりの切れがものすごく悪いことで、それは全体にいえる。しかも、セリフに緩急をつけることを知らず、ためることができないから、観客をグ〜ッと引きつけて、ポッと解放することができない。
だから正面突破しか頭になく、大事なところでやたら力が入ってしまうことになる。それを熱演と勘違いしていたらもう最悪で、観客はどっちらけだ。そこから一歩も抜けきっていない演技ばかりだった。結局、俳優自身から離れられない。リトルセブンのそれぞれの人物の個性が際立たないのは、これが原因だ。
演出にもどろう。演技の欠陥をどうカバーしようとしていたのか。
ここでも、音響や照明の使い方など、無為無策としか思えず、演技を助けたり、場面や状況の転換を強調することはない。美術も陳腐で、とても加藤ちかの美術とは思えない。
この舞台は、12日から14日まで5ステージ。ラストステージを観た。満席だった。