宮本亜門の演出を見たくて観にいった。その演出、全体的なボリュームは感じさせても、細部の切れ味はいまひとつで、やや鈍いという印象だった。
ユーリンとはおしっこのこと。
深刻な干ばつのあとの混乱期(悪臭の時代)を経て、時はトイレの私的使用が禁止されるという超管理社会。使用が義務づけられている有料公衆トイレを買い占めた悪徳企業UGC社。
若きトイレ管理人助手(別所哲也)が、自由におしっこをする権利を求めて革命を起こす。その彼に芽生える恋の相手は、UGC社の社長(藤木孝)の娘(鈴木蘭々)。
脚本は衝撃的な内容だ。自由と愛も水と食料があってこそ、というメッセージを、愛と自由を賛美するスタイルで描きぬき、ラストにさりげなくどんでん返してみせる。
そのスタイルもそんなにやわじゃないのは、会社のためには社長は娘を見捨てる。その娘、自らが戦いの象徴となるや、父を切ってすてる。そこまで書き込まれている。
強烈なメッセージを持った舞台を、圧倒的なボリュームで押しまくる。そのようなボリューム感をそこなわないことに考慮した演出だ。
刑務所で演じられる芝居という「マラー/サド」のような構成。装置は、円形の大きな檻。それが開き、動き、各場面を作る。生演奏のバンドのメンバーも囚人服。
だがそのような、圧迫するものと圧迫されるものという、構成がねらったしかけを、饒舌な狂言回し(作者 兼 看守 兼 警察官役の南原清隆)が否定してしまっているのはどういうものだろうか。この役は実は、狂言回しではなくて運命を操る神の手なのだろう。それを軽い解説者にしてしまっては、全体の構造は見えてこない。
ボリュームにこだわった演出と、狂言回しの饒舌によって、却って個々のシーンが立ち上がらず、その印象を弱めている。
そのように見てきて、全体的にこの演出には、基調に流れる冷徹ともいえる視点が弱いといえる。
主役の俳優の歌は聴かせる。特にマルシア(トイレ管理人で、UGC社社長のかっての愛人の役)の歌は圧倒的だ。
ダンスは、何とも甘い。チャラチャラしていて芯がなく、ピシリと決まらないのがもどかしい。基礎的な訓練不足をさらけ出していた。
この作品は、2002年のトニー賞の3部門受賞作品の日本版。
こんな上演もあり、だろうが、宮本亜門の演出は、ブロードウェイの演出に何かを付け加えるよりも、失っているもののほうが多いのではないか。オリジナルの演出家による演出のほうが、より鮮烈な舞台になったのではないかという気がする。
この舞台は、北九州ではきょうとあすで3ステージ。ほぼ満席だった。