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《2004.3月−11》

「寿歌」の世界を、歪め狭める
【寿歌 (GIGA)】

作:北村想 演出:菊沢将憲
26日(金) 19:40〜21:05 青年センター3階 500円


 先月の「エスキュリアル」ほどひどくはないが、それでも同じような欠点があって、不満の大きい舞台だ。「寿歌」の世界に真摯に向かい合わない、ひとりよがりの舞台だった。
 それでもかろうじておもしろさが顕われているところは、もともとこの戯曲が持っていたところのおもしろさだ。この上演は、戯曲を歪め狭めているところはあっても、つけ加えているものはほとんどない。

 核戦争後の荒野を歩く、人類の数少ない生き残りである旅芸人のゲサクとキョウコ。そこに現れたヤスオ(→ヤソ→キリスト)とともに、モヘンジョダロを目指して旅をする。

 「寿歌」の世界を、この上演がどう歪め、どう狭めているかを見ていこう。
 基本的な間違い―もともと戯曲である作品を、どうして再脚色する必要があるのだろうか。既存戯曲の上演の基本は、その戯曲への徹底的なアプローチをとおして、戯曲に分け入りその本質に迫り見出し、それを表現する方法を模索する過程で自らの表現方法をブラッシュアップしていく、ということではないのか。
 劇団がちゃんとした表現の理念をもっていて、それを実現できる力を持っているなら、それに合わせて大幅な改定をやるというのはありうるかもしれない(事実、生田萬がそれをやっている)。だが、ここでのわが身に合わせた既存戯曲の変更は、戯曲に対して失礼だ(作者にテキストレジの承認を受けていたとしても)。そして、その変更により脚本の質は確実に落ちた。演出と演技の問題もあるが、「とっても明るい虚無」を支える静謐で清冽な「寿歌」の突き抜けた世界は、みごとに押し殺されてしまった。それが、まったく新しい「寿歌」の世界を作っているのならそれも許せるが、そんな舞台には遠い。

 演出は、発想が雑駁で、どうしようもなく単調だ。
 何とか見せるのは最初の15分だけ。あとは、よけいな力ばかりが入ったワンパターンを繰り返すばかり。戯曲を浅はかにつまみ食いしているだけ、としか見えない。ちゃんとした戯曲の読み取りができているならば、状況の変化にあわせて舞台は様相を変えていくはずだが、はじめから終わりまでそのトーンは変わらない。

 演技は、四角いところを丸くしかとらえきれない演出の限界を破るのは大変だが、それにしても策がなさすぎる。
 がなること=熱 という、まちがった思い込みにとらわれている。重っ苦しい(この読みまちがいも致命的)関西弁を、同じトーンでがなるばかりというムダ。ただただ大仰な動きというムダ。そう、ムダのオンパレードだ。そのためのあまりのメリハリのなさ。水ぶくれ演技だ。そんな演技がいい演技だと本気で信じていたり、そんな演技がGIGA調だと思っているとしたら、考え直したがいい。

 会議室を横長に使い、廊下側の窓をあけて廊下も舞台として使う。真っ白な風船が葡萄状に天井から垂れ下がり、床には砂。そのようなところはいいのだが。
 どうせずっこけるなら、挑戦的なオリジナルでずっこけてくれるほうが、まだいい。
 この舞台は、2チームで計4ステージ。1回目上演の鶴組を観た。ほぼ60席の客席は満員だった。

【追記】
 ご指摘をいただいたので、訂正させていただきます。
 上記の感想では「再脚色されている」と書きましたが、この舞台は原作戯曲そのままの上演です。
 事前に戯曲のチェックをしておらず、かなり前に観たうろ覚えの舞台の記憶によったためのミスです。チラシおよび上演当日配布のパンフに「脚色・演出:菊沢将憲」とあったこともあり、まちがえてしまいました。
 感想の文言は訂正せずにそのまま残し、恥をさらすこととします。


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