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《2004.3月−12》

すごく楽しい名舞台、だが
【太鼓たたいて笛ふいて (こまつ座)】

作:井上ひさし 演出:栗山民也
28日(土) 13:30〜16:30 メルパルクホール福岡 4800円


 井上ひさしは、心情に働きかけて、涙腺のツボを押さえるというやり方はもう抜群で、観ているとウルウル状態になる。だが、そんなウルウル状態に嫌気がさしている自分もまたいる。
 それにしても、栗山民也の演出を感じさせないほどの演出と、大竹しのぶをはじめとする俳優のみごとな演技は、観ていて心地よくて、もううっとりしてしまう。

 林芙美子の後半生を描く。すでに芙美子は有名になっている。描かれる時代は、昭和10年から26年まで。
 「戦争は世の中を生き生きとさせる」という「物語」を信じて、前線に出向いて従軍記を送り喝采を浴びるが、だんだん厳しくなる戦争の実態を目の当たりにして、芙美子は考えが変わる。

 2幕のこの舞台では、大きな分岐点をそれぞれの幕の早いところにもってくる。
 第1幕での変化は、戦争の効用を説かれて芙美子は、「わかった!」とそれを納得するところ。そして徹底的に変わる。「兵隊さんをスターに!」と、直情的にやりすぎるほどに軍に協力する。
 第2幕での変化は、敗戦間じかの時期に、直情的に戦争を語っていた芙美子は、戦争の真実を話して窮地に追い込まれる。しかし芙美子は、信を曲げずに敗戦までを耐える。

 「『物語』がこの世のすべて!」というのは、芙美子を説得するときの三木孝の物言いだ。こじつけるわけではないが、井上ひさしはストーリーテラーであって、ドラマチストではないというのが、この舞台でもよくあらわれている。それは、変幻自在の山場のもってきかたで、井上の戯曲の『物語』性がよくわかる。
 行商人→満州国の憲兵→警察官 とその環境が大きく変わっていく加賀四郎について、そのような変化は社会情勢がそうさせたとしか見えない。まわりの誰か影響されての変化ではない。だから、舞台の上にはその変化の原因はない。そう、『物語』だ。
 その『物語』性を作劇的にみれば、その人の変化をとおして、背後の広い社会の動向をうまくわからせることになる。
 人物は、わかることで変わる。だから、大切なことは言葉で語られる。それは主に過去のこととして語られることが多い。また、概念的な言葉で思いが語られることが多い。
 そういうふうにエピソードを積み上げて作り上げられているが、実際のエピソードのなかからおもしろいところを抽出する(あるいは捨てる)能力は抜群だ。さらに単純でないのは、例えば2幕前半の芙美子のいちばん苦しいところをさ〜っと流すなど、その語り口の自在さだ。それが、人対人のガチンコは弱いにもかかわらず、『物語』を『ドラマ』と思わせてしまう理由だろう。
 だがこのところが私にとって、ウルウル状態に嫌気がさす理由でもある。

 演出のスムーズさは、演出をほとんど感じさせないというほどで、栗山演出の真髄を見る思いだ。
 人の心を動かすしかけはたっぷりだが、決して則を超えない節度がある。演出が奇をてらったっり生煮えだったりせず、舞台に溶け込んでいるということだろう。ちょっと驚かされることも含めて、全体が心地よいテンポで、トータルとしてはスーッと入ってくる。

 キャスティングはもう絶妙だ。そのなかで、大竹しのぶ の演技をみてみよう。
 朝のシーン、ほんとうに眠たそうに出てくる。顔にモヤがかかったような、いかにも眠たいという顔だ。これにはびっくりした。
 その顔の表情が、まわりの人とのやりとりのなかで変わっていく。それも芙美子の心情をやや強調するように、生き生きと変わるのだ。惚れ惚れしてしまう。その表情が、状況を的確に表現していく。

 この舞台は福岡では、きのうときょうの2ステージ。1階は後ろのほうに若干空席があった。
 席はよくなかったが、きょうは声も割れず、会場への不満は少なかった。会場の条件を克服するような力が、この舞台にあったということだろう。


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