この舞台、ヴェールがかかったような不鮮明さだ。
前半は、イライラしたあげく、かなりウトウトしてしまった。後半少しは持ちなおしたものの、それでも不鮮明さはつきまとった。
なぜ不鮮明と感じるのか。それは、演出も演技も戯曲にきちんとフォーカスしていないためだ。
パリに住む中年男3人(マルク、セルジュ、イヴァン)は、15年来の友だちどうし。
医者のセルジュが高額な現代絵画を買ったことが気に食わない航空エンジニアのマルク。結婚をひかえて家庭問題でたいへんなのに、ふたりに振りまわされる文具のセールスマンのイヴァン。3人の自我丸出しの不興はだんだんエスカレートしていって・・・。
会話劇だから、会話している人の間には、見えない緊張の糸があるはずだ。なのにこの舞台ではそれが、切れていたりもつれていたりと、非常に弱い。
ファーストシーンは、マルクに絵を見せるセルジュ。このふたり、とても気の置けない友だちとは見えない。15年来の友だちならあるだろう基本的な信頼とか親しさが感じられないのだ。だから、絵を見せたあとのちぐはぐさが引き立たないことになる。
ふたりは見えない糸を操って相手を説得にかかるが、行き違いがだんだんエスカレートしていく。その行き違いがエスカレートしていく様が何ともわかりにくくてすっきりしない。それは、戯曲にはきちんと書き込まれているのを、演出と演技がとらえきれていないためだ。それがきちんとしているならば、アクションとそれが作りだす状況はきちんとわかったはずだ。
会話が緊張をはらまないのは、受けの演技ができていないこともある。
3人とも、前に出ること即ち自分が目立つことしか考えていない。しかしそれと同じように、相手がしゃべっている間の、相手のセリフをどうとらえているかの演技も重要なはずなのに、それがほとんどできていない。そのため緊張がなくなる。また、次のアクションまでにひと呼吸おくので、会話はギクシャクしテンポが悪くなる。
また、攻めるほうに過大な力が入り、いかにも作りすぎて暑苦しい演技になる。しかも落ち着かない演技だ。
アントンクルーにおいては、以上のような演技者どうしの関係は、舞台と観客との関係にもあてはまる。
その舞台においては、観客の意識のながれについての意識が非常に薄く、そこに配慮しない。観客主体のマーケットインの考え方はなく、あるのは劇団主体のプロダクトアウトだけだ。完全に創る側だけのペースで、全体的な流れが心地よくないのはこれが理由だし、やや堅苦しく「新劇的」なのもこれが原因といえる。
この舞台は、日本演出家協会の「若手演劇家コンクール2003」の最終選考のために今月初旬に東京で上演される予定だったが、上演権の問題のため上演できなかった。その舞台の福岡公演で、きょうとあすの3ステージ。
ほぼ満席だった。