内容も表現方法も、変わりばえしない。
初めて観る人にはおもしろいのかもしれないが、底の浅いままにパターン化されてしまった舞台には、新しい挑戦は感じられない。
ミクロ化した潜水艇クラーケン1号。ウサギの体に入る予定が、まちがって役者・高峰の体に入ってしまった。ミクロ化の秘密を奪おうとする強盗団。そこには、インターポールが潜入している。
クラーケン1号の艇長・北島は、高峰と協力してもとにもどろうとするのだが、酸素が不足してきて・・・。
脚本にはピリッとせず、完全なオリジナルではないことの弱さが出ている。”わかること”と”創ること”には、その創造性において致命的な差がある。連想とかイメージ借りに頼りすぎて、パワーが弱くなってしまった。
ストーリーのメリハリは弱く、人物は一見個性的だが実は類型的で、いずれも深みに欠ける。主人公の先端恐怖症の克服が中心というのも、推進力としては弱い。それでも最後の20分は何とか見せたのは、くだらん遊びをなくしたからだ。そのことで、それまでのよけいなものの多さを認識することになってしまう。
舞台の印象は、いかにも第三舞台のエピゴーネン。決定的な違いは、その内容のなさだ。演出はカッコつけすぎで、演技は単調すぎだ。結果、ものすごく古臭い。
演出は、一見スピーディな展開のように見えるが、内容のなさをテクニカルでごまかそうとするカッコつけのために、実は展開はとろい。空に向かってがなるだけの演技がそれに拍車をかけていて、睡魔に襲われっぱなしだった。
それにしても、何で普通のちゃんとした演技ができないのだろう。例えば艇長・北島役の小沢健次、終盤の酸素が切れかかったシーンでがならなくなったら、とたんにちゃんとした存在感が出てきた。がなる演技がいかに表現を弱めているかがわかる。
今回初めて見る広瀬健太郎の演技が、他の俳優に比べて軽い動きやしゃべりがまだ自然で、おもしろかった。
この舞台はきのうときょうで2ステージ。会場が広いこともあって、5、6割という入りだった。