作品の構想を大きく持って戯曲の構成を考え、演出を工夫し、多彩な客演俳優を集めた公演の意欲はよくわかる。そういう面ではパワーがあるし、光安の作風も悪くはない。
ただ、その具体的な実行にあたっては、基本的な考え方の甘さに加え、詰めの甘さもあって、なんともピリッとしない舞台となった。
西部の町で暴虐の限りをつくすスタイナー・ブラザーズ。首領・リックは無慈悲な暴れ者。
そこにF/T/K(Fire/Thunders/Kid)という流れ者のガンマンがやってくる。そしてローザという女も。
単純な正義のガンマンものという感じで始まる。そのガンマンが途中から悪者に協力するところは、敵を欺くためだけとは見えず、本心がわからなくなる。それでも何とかみんなで協力して悪者を打ち負かせば、ガンマンは正義の味方だった、と落ち着いてしまう。
こんな首尾一貫しない立場、あるいは根拠もない変化が、「日本人の為の西部劇」(パンフレットから)なんだろうか。保安官の父を殺された メアリー を手土産がわりに悪者に引き渡して、悪者に取り入って町の人を裏切り、しかしそのあと 悪者リック に銃を突きつけてこんどは悪者を裏切る。
何のためにこんなわからなさなんだろう。こんなわからなさが「日本人の為の」だとしたら、日本人をバカにしている。人物が優柔不断で中途半端なのは、作者が優柔不断で中途半端なためだ。ほんとうに優柔不断で中途半端な人を描くとすれば、こんな描き方にはならない。
舞台の作りは、アイディアはそれなりに多いが、本筋以外のところにばかり力が入っている。戯曲の中途半端さを補正するのではなく、どうでもいいところを好き勝手に大げさにやって、戯曲のいびつさに拍車をかける。せっかくの舞台美術(小牧十朗)が泣く。
演るほうはそれで満足なのかもしれないが、そんなくだらないものを観るために劇場に行っているのではない。
どうくだらないのか、それがかなり典型的にあらわれている 天野智範 の演技について見ていこう。その演技、気になってしかたがなかったのだ。
天野の役は、訳ありの初老の神父・ブライト。天野はこの人物をきちんと演じる気があるのだろうか。とてもそうは見えない雑駁すぎる演技だ。この神父が、ものすごい人格者でないことはいいとしよう。だが、いくら全体が荒唐無稽であるにしろ、ここまでわけわからない魅力のない人物にしていいはずはあるまい。
この人物について天野は何も考えていない。セリフの意味も全然考えていない。だから、じっくりとセリフをしゃべることもできず、もうヤケクソに、ただただチャラチャラと大げさにわめく。
そして、どうにも許せないのが、照れだ。大事なところで照れ笑いを浮かべる。その天野の照れが、役の人物を覆ってしまう。人物はもう天野自身とは離れては存在しない。天野がそのまま人物に乗り移り、天野しかそこには存在しない。神父・ブライトに何の印象もないのは、これが原因だ。
なぜ照れるのか。それは、大部分の観客が知り合いだからではないか。だが、たとえ観客が知り合いであるにしろ、観客のだれがそんな演技を望んでいるだろう。勝手に甘ったれているだけだ。
今回は特に悪いのかもしれない。そうであるにしても、あなピグモ捕獲団の中心俳優である 天野智範 が、こんな泣きたくなる演技でいいはずはない。黙って立つだけで"居る"という演技も、意識を変えればできるはずだ。バリー・コリンズ「審判」でも演って、甘さを払拭してくれないだろうか。
この舞台はきのうときょうで4ステージ。ラストステージを観た。若干空席があった。