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《2005.2月−4》

ちょっと目線を上げてみると
【世界で一番悲しい唇 (非・売れ線系ビーナス)】

作・演出:田坂哲郎
8日(火) 19:15〜20:35 ぽんプラザホール 通しチケット3600円



 才気あふれた生きのいい舞台だが、詰めが甘くてアドリブへの逃げが多いなど、成熟度が足りないのが気になる。
 発想のよさをさらに突き詰めて、構成にも表現方法にもさらにアイディアを詰めて練り上げれば、舞台は大きく輝きを増すだろう。

 森の奥に据え付けられた大砲で敵軍を破ったはいいが、自国民までも殺して破滅させた軍人。人形とともに鏡に閉じ込められた世界で生きのびている。
 300年後の現代、その森の開発のための工事が始まる。

 福岡で作られている中では最も発想力豊かな舞台で、それだけでも楽しめるレベルにはある。鏡の世界、キーワードとしての回文、虚実取り混ぜたいろんな話が時間を超えて交錯し、きらめくようなシーンが小気味よく演じ分けられていく。
 それなのに、観ながらず〜っと不満がくすぶりつづけ、それは最後まで解消されない。序章を延々とひっぱり、前菜だけで終わったという印象しかないが、それはなぜだろうか。
 鏡の中での300年にわたる軍人と人形との幻想の恋、というせっかくのアイディアに対して、そのアイディアにこだわって膨らまそうとする姿勢は希薄だ。何ともさりげなさ過ぎて、一瞬だけピッと思いがあふれることはあるが、激しく思いが深まりそれが言葉としてあふれ出て、さらには他のアイディアとも結びついてまったく別の世界を作り出す、というところまではとてもいかない。多彩だが未整理なままに平板に投げ出されたようになってしまった。
 深耕しないというそのような姿勢が、この劇団の持ち味とも言えるいい意味の”軽さ”にはなっているように見える。しかしその”軽さ”は、決して挑戦的な新しいスタイルというのではない。硬直化しているのよりもいいにしても、十分に膨らましきれないから軽さに逃げていると見える。突き詰めたあとに残る軽さこそが本物だろうから、ここでは軽さをまだ本格的な演劇になっていない証左と見たほうがいい。意図的に軽さを狙った中途半端なアドリブの多用が本筋を見失わせ、結果、舞台を本格的な演劇から遠ざける。俳優の素をまで出す、やるほうが楽しむためのアドリブは、観ていてなめられているとしか思えず気分が悪い。

 そのように本格的な演劇になっていないところが、先達の演劇人を”揶揄”するシーンで極端に表れていた。決して”オマージュ”ではなくて”揶揄”でしかないことで、つかこうへい、野田秀樹、平田オリザ をどんな程度に捉えているかがわかる。物まねにもなっていないレベルの演技で、先達の演劇人を切れるとでも思っているのか。自分が何者なのかということも含めて、現代演劇の営みをほとんど解っていないことをさらけ出していた。
 観客の反応は総じていいが、それは演劇関係者が観客の多くを占めていることも影響している。演劇関係者は舞台の演技のかっこよさに感情移入する。例えば、川口大樹が斜め上を見上げていい表情をすれば、演劇関係者ならそれを自分が演じているように感じて気持ちがいいだろう。しかし一般の観客はそんなものでは気持ちよくはならない。その演技が本物かどうかだけだ。一般観客を引きつけるにはまだまだと言わざるを得ない。

 以上のように、目線を少し上げれば不満はいっぱいあるが、この劇団は大きく発想して世界を広げていくことには長けているのだから、広げたその脆弱な骨格を筋肉で補強して、作品の質を大幅に上げていってほしい。
 この舞台は、5日〜6日に博多南駅前ビル2階 多目的オープンスペースで3ステージが上演され、きょうはぽんプラザホールの火曜劇場用の歌謡劇場バージョンで1ステージ。満席で立ち見も出ていた。


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