硬質で激しくてドキリとする鈴木忠志の様式美はみごとで、芸術性の極北ともいうべき舞台に触れられるのは幸せだ。
だがそのような印象は、舞台全編、ほとんど変わらない表現方法が延々と続くために、ついていけなくなった感性が反逆を始める。飽きてくるのだ。
この作品の初演(1978年)のころに比べると、様式美としての完成度は上がり、作品解釈のレベルも上ったかもしれない。しかし、かっての作品が持っていた内発するエネルギー、変幻するエネルギーは弱まった。たぶん、この作品の初演のころが鈴木忠志の頂点だったのではないだろうか。こんなことを書くと、また懐古趣味が始まった、と笑われそうだが。
自らの教えをギリシアに広めようとテーバイにやってきた酒の神ディオニュソス。ディオニュソスを神と認めないテーバイの王ペンテウスは、山の中に信者の女たちを見に行って、自分の母親アガウエと信女たちに殺されてしまう。
籐椅子6つだけというシンプルな舞台に、俳優の研ぎ澄まされたダイナミックな動きが際立つ。冷静な動きの僧侶たちは冷徹な目で権力を見つめ、極端で強烈な衣裳と動きの信女たちの狂信がそれを支えている構図をくっきりと示す。
確かに魅力的ではあるが、ものすごく理知的で、観客が甘えて寄りかかってくるのを拒絶してしまうような舞台だ。
そのような舞台の構図を見ていると、原作の劇化のために通り越してきたいくつかの「層」が、かなり明確にあるのではないかと考えてしまう。
原作に近いところから、「原作の解釈」、「そのためのコラージュ」、「俳優による表現」の3つの層があり、この舞台ではその3つの層がけっこう独立しているように感じられた。
かっての舞台にもこのような層はあっただろう。しかしそれを意識させられることはなかった。かっての舞台にそのように層を意識しなかったのは、コラージュにあたっての現実をうがつ鋭さもあるが、俳優の肉体による表現力の強さに拠っているところが大きい。観世寿夫の肉体表現の強さが3つの層を突き破り、原作の持つマグマを噴出させる。そこではもはや、理屈は吹っ飛んでしまう。
そう考えると、この舞台に対する不満の理由も少しは見えてくる。それはここには、観世寿夫の肉体表現に匹敵するものがないということだ。
時間がなくて鈴木忠志とペーター・ゲスナ―によるアフタートークは聞けなかった。
この舞台はきょうとあすで2ステージ。若干空席があった。