よくわからないけれどものすごく魅力的な舞台に、ごくまれに遭遇することがある。この舞台がまさにそれだ。
7つの話からなるオムニバスで、脚本は戯曲というよりは象徴的な”詩”だ。その深い示唆に溢れた詩を舞台化する演出家は4人。この脚本のメッセージにチャネルを合わせ、自分の方法で切れ味よく表現している。そして7つの話を通すことで、”創世記の反対”(アフタートークにおける倉迫康史のことば)を浮かび上がらせる。
短い「プロローグ」のあと、第7話「戦場」から始まり、「時刻」、「文明」、「退屈」、「夢想」、「接合」の順に演じられ、第1話「遺骨」で終わる。
舞台中央に奥行きのある大きな枠があり、その中で演じられる。上手に現代の部屋があり男性がパソコンを使い、下手に大きな双眼鏡がありそれを女性が覗く。
「プロローグ」 (演出:倉迫康史)
頭からすっぽりと覆うフードがついたマントを着た出演者たちが客席から登場。人類の世界が終わったことを告げる。
「戦場」 (演出:倉迫康史)
14歳の少年と少女。戦いしかない少年に愛を求める少女とのすれ違い。そして爆弾による死。
暗い舞台のなかで、両手首を切り落とされた少女の袖の先の長い布が、鮮やかな印象を残す。
「時刻」 (演出:自由下僕)
殺してしまった母のそばでの男の子の独白。母の男との関係を激しく憎む息子。
母と息子の二人とも仮面をつける演出で、独白の単調さを避けていた。ただそのような演出をチグハグと思いなじめないのは、きばっていて心の状態がリセットされていないためだろうか。
「文明」 (演出:森本孝文)
7時間50分後に起こしてくれと妻に頼む男は、そのための目覚し時計がどう時を告げるかを知りたくてしかたがない。だからそのためにアラーム時刻を1分遅く設定する。
文明に振り回される人。そんな文明のための文明を、軽やかな会話で描く。やっとこの舞台のスタイルになれてきた。
「退屈」 (演出:泊篤志)
退屈な王と王妃。ふたりは難癖をつけてはまわりの者をみんな殺してしまっていて、残ったのはふたりだけ。
死の入り口ともいえるこの退屈さが、人間のエゴで崩壊する文明の脆弱さを示唆している。生きのいい演出の裏にそれらを感じて、ゾッとする。
「夢想」 (演出:倉迫康史)
理想を説く男は50年も若返ったが、女はそのままの年齢。いっしょに死にたい。しかし朝になれば入れ替わっているかもしれない。
社会主義(男)と人々(女)を想起させる演出。男と女の関係が、どちらがどちらを抱くかとか、いっしょの棺に入るとか、年齢が入れ替わるとか象徴的だが、それでもまだイメージを想起しやすくわかりやすい。ひとつくらいこんなのがあってもいいか、理解がまったく間違っているのかもしれないけれど。
「接合」 (演出:倉迫康史)
性交していてはずれなくなってしまった不倫の男女。その非常事態も、満月の下では自然にさえ思え、ふたりはそのまま散歩に行く。
紐でぐるぐる巻きのふたり。その紐さえが当たり前になってしまうということか。具体的過ぎる設定に、笑った。
「遺骨」 (演出:倉迫康史)
上手の部屋の男と双眼鏡の女。ゲームの世界地図上での不自然な姿勢でのからみ。そこからたがいになつかしい肉体を慈しみあう男女。それでも肉体は、風になる。
どこまでも触れ合う男女に、徹底的に意識させられる肉体。はかなくなるからこそ、肉体あるいは生きていることのいとおしさが迫ってくる。
この舞台がものすごく魅力的なのは、そこに志の高さと激しい挑戦を強く感じるからだ。”創世記の反対”という壮大な世界を舞台化するというその発想のすごさに恐れ入る。
そしてそれは、オムニバスで演出を分担することで広い地域からの才能を集め、その多様性で構成はいちだんと大きくなった。ひたすらに前に突き進んで、ギリギリのところで形象化した、そのような熱い舞台に触れられて幸せだった。
終演後、倉迫康史さん、自由下僕さんのアフタートークが20分強。いま注目のプロデューサー倉迫康史さんに、宮崎とのかかわりを質問した。てっきり宮崎出身だと思っていたが、そうではないのがわかった。
この舞台は、山口ではきのうときょうで2ステージ。500席ほどのスタジオに半分以下の入りだった。