たくさんのアイディアが詰め込まれていて、ずっしりと重みのあるという舞台だ。その詰め込まれたものが表現者の意図どおりには理解できなくても、感じて心に届いて溜まる。全部わからなくても、わかった部分だけで十分におもしろいのは、この作品の圧倒的なボリュームのためだろう。
ダンスパフォーマンスだが演劇的要素が多く、内容は豊か。意図的な泥臭さが暖かさを感じさせ、古き時代の懐かしさを感じさせるというステージだ。
抜群の身体能力とは思えないダンサーだが、身体能力に依存しないでダンサーの個性を引き出しているのは、振付のおもしろさもさることながら、コンテンツの多彩さをみごとにひとつの舞台にまとめあげた構成・演出の力が大きい。
梶井基次郎の「檸檬」をもとに自由に膨らませた、5人の女性によるダンスパフォーマンス。
ゴミの中から現れて、美しいものに触発されて戯れ、また元のゴミに還っていくという大きなフレームのなかに、戯れることの楽しさを詰め込んだ。
内容をすっかり忘れてしまった「檸檬」は読んでいないのと同じことだから、そこからの連想はない。勘の鈍い私にはストーリーを必死で読み取るのも苦手だからそれもあきらめ、もっぱら舞台に身をまかせそれぞれのシーンを楽しむという見方になったが、それがとても楽しかった。
原作の「檸檬」からのシーンは、ゴミが舞台にあるなかで演じられるがそれほど長くはない。ゴミが片付けられ舞台一面を覆ったシーツが剥がれ、人物もまとったボロを脱いでいくと、あとは、ゲームのようなものまで広げた自由な世界が展開する。大きな縄跳びをみんなで跳びながらの言葉遊びなど、ダンスの世界から踏み出して、蓋然性を抱えたところまでやってしまうという、そんな幅広さだ。
振付は、ダンサーの身体能力を見定めていて、普通の意味でのダンスの形のよさばかりにはこだわらず、その身体能力の範囲でどう多彩に見せるかに腐心していて、その多彩さは十分に楽しめるから、成功していると言えるだろう。一人一人のダンサーの個性が引き立つフォーメーションなどを見ていると、群舞しかできないミュージカル劇団や、ひとりよがりのコンテンポラリーダンスの貧困さとは一線を画すレベルの高さといえる。ダンサーの身体能力が高まれば、振付の幅がさらに広がり、舞台の楽しさもさらに大きくなるだろう。
この舞台はぽんプラザホールの火曜劇場の参加作品で、きょう1ステージだけ。火曜劇場という企画のおかげでこんな作品を観られるのはうれしい。この舞台が1ステージではもったいない。