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《2005.3月−6》

アンドロイド、かいな?
【ねずみ狩り (うずめ劇場)】

作:ペーター・トゥリーニ 演出:ペーター・ゲスナー/藤沢友
13日(日) 14:05〜16:25 スミックスホールESTA(北九州) 2500円


 この戯曲が書かれた40年近く前と今との間に横たわる時間、それを越えることができない舞台だった。
 その40年近い間に日本は高度成長を経験しIT時代を迎えた。社会も変わり、ゴミも変わった。そしてねずみも変わってしまった。かっての悪臭芬々たるゴミはいまや、無機的な電子部品が中心になってしまった。そこにはどんなねずみがいるのだろうか。電子部品でできたアンドロイドねずみか。
 そう、この舞台では、なんとも無機的で味気ないふたりがアンドロイドに見えてしまったが、それが狙いだとはとても思えない。そのような中途半端さは、この舞台が戯曲の持ち味を引き出しきれていないことを意味している。

 ゴミ廃棄場に車で来た若い男女。
 男は手作りの高級車にも完成すれば飽きて、ゴミ廃棄場のねずみを銃で撃つのと女をひっかけることが生きがい。ふたりは自らを何者でもないゴミだとして、身につけたものをひとつひとつ捨て去り互いにゴミとして向きあうゲームを始める。

 舞台を現代の北九州市に置きかえている。そのことの意味を考え尽くさない不用意・不徹底が、生じたねじれや矛盾を昇華できない。3年前の「いまわのきわ」には、ねじれや矛盾を昇華できる演出の力があったから、この作品での演出の力不足は明らかだ。その力不足を作品の背景の解説などで覆い隠そうとしてもムダだ。ほしいのは感動で、知識ではないから。作品とトコトン向き合うというこの劇団の姿勢が弱まったように見えるのが気のせいならばいいが。

 最初の男女ふたりによるねずみ狩り、そしてラストの男女ふたりがねずみとして狩られる、そこはおもしろいのに、そのあいだに長々と続けられるゲーム―男女が身につけたものを捨てていく―が決まった結末に向かって一直線で、単調でつまらない。ここに緊張がないのは、演出も俳優も結末を当然と受け止め、それに向かって障害らしい障害を出すこともなく、スケジュールどおりに破綻なく進めることしか考えていないためだ。
 捨て去ることの痛みはそんなに弱いだろうか。やめようとする気持ちが襲ってこないはずはないが、そのような心の揺れの振幅は感じられない。だから情感に欠け、男女のあいだの距離が伸び縮みすることもなく、ふたりがデクノボウに見えてしまう。服を脱いでいくあいだも何のときめきもなく一向にそそられない。スッキリとしていて表情に乏しいふたりの裸体の、その全裸でのダンスシーンの何と爽やかなこと。隠微さがほとんどない、そう、アンドロイドだ。

 ふたりをアンドロイドにしてしまうという演出はもちろん可能だが、ここでそう見えたことは演出の力不足のためだ。かなり中途半端ではあるがセリフに北九州弁を選んだことは、そういう方向づけをせず、アンドロイドではなく人間として描くことを選び取っていることの証明だから。であれば、トコトン人間として見つめるべきだった。
 演出の力はどこに行ってしまったのだろうか。戯曲と拮抗し火花が散る舞台を期待していたがみごとに裏切られた。ペーター・ゲスナーは、後進を育てることを理由に手を抜いていると見た。全力で取り組んでその力を見せつけることこそ、観客への礼儀であり、いちばんの後進指導ではないのか。

 期待がものすごく大きかったので、つい厳しい感想になってしまった。しかたないだろう。
 この舞台は、北九州では10日から13日まで4ステージ。ラストステージを観た。80席ほどの会場は満席だった。


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