なんか、つまらない。演出の切れの悪さと俳優の演技の切れの悪さ、それがつまらない原因だ。
父伯爵と卑しい出の母との間に生まれた令嬢ジュリー(栗原小巻)が、元気があって気位は高いが貴族への畏怖が強い下男ジャン(清水コウ治)に、誘惑されて身を落とす。
ジュリーがジャンの部屋に行くまでの第一幕(原作は一幕戯曲だが、この舞台はニ幕に分けられている)はいいとしても、ジュリーの自死(とこの舞台は表現していたが、議論の分かれるところか)までを描く第ニ幕はほとんど迷走している。
卑しい出の母の血が流れているジュリー(25歳)には、世間知らずのひ弱な高貴さだけでなく、本能に身をまかせるような情熱や自己主張の強い男性的な面もあわせ持つ。
外の世界も見たことがあるジャン(30歳)は、いまの境遇から何とか抜け出したいとあがいているが、特権者への畏怖と憎悪は体の芯までしみこんでいる。
もうひとりの人物である料理女クリスティン(35歳)はジャンの許婚で、信仰深いがその信仰も至って功利的という、たくましい典型的な庶民だ。
その3人がそれぞれのシーンで、人物のひとつの側面顕われて丁々発止のやりとりをする。それがあるきっかけで人物の別の側面に変わると、そのやりとりはまったくといいほど変わってしまう。そのように、人物のいくつかの側面の多彩な組み合わせで、そこに顕われた人物の思いと反映した当時の状況をみごとに描いて、きちんと掘り下げていくという構成だ。
そのシーンが変わるきっかけは、伯爵が帰ってきた呼び鈴の音などの外部的な変化や、人物の本音が表れた短いセリフなどで、そのことで変わった状況では、まるで階段を一段上がったという感じだ。シーンが変わったあとは、長いセリフで新しい状況を踏み固めるという印象だ。
実際の舞台で切れが悪いと感じたのは、それぞれのシーンが弱いからだが、それは演出に、ジュリーに対する先入観がつきまとっていて、そのシーンで人物のどの側面が顕われているかの表現が十分ではないためだ。
なぜそうなったのか。それは、ジュリーの気品と美しさに強くとらわれているためだが、その根本的な原因はこの舞台が栗原小巻を見せるための舞台であることから来ていると思われる。栗原小巻をどう見せるかに腐心した演出だから、私の望む演出とはもともと演出の意図が違うのだ。そのことがこの舞台を弱くしてしまった。
むしろ逆なような気がする。栗原小巻に舞台を合わせるのではなくて、徹底的な舞台に栗原小巻を合わせることでしか、舞台の魅力も栗原小巻の魅力も出てこないのではないか。
そういう面では俳優の演技も不満だ。25歳のころの栗原小巻、30歳のころの清水コウ治の舞台を実際に見ているが、そのころの色気はすでに失せ、今のふたりにこの舞台がねらったようなギラギラのジュリーとジャンを演じるのは無理だ。想像力で補わなければならないので疲れる。
演出の陳腐さからそうなってしまったが、舞台のおもしろさを中心に据えた演出ならば、いまのふたりの肉体でも十分に魅力ある舞台になっただろう。スター芝居の演出の限界を見てしまう。
この舞台は、栗原小巻の自主公演のための組織であるエイコーンの制作の、福岡市民劇場の4月例会作品で、福岡では13日から22日まで11ステージ。満席だった。
(清水コウ治さんの、「コウ」(糸ヘンに、宏)がうまく出ませんので、カタカナですみません)