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《2005.5月−7》

構想を満たさない、表現の貧困
【裏庭 (ぎゃ。)】

原作:野田和佳菜 脚本・演出:中村雪絵
21日(土) 16:05〜17:25 ぽんプラザホール プレゼントチケット


 この劇団らしい冴えはどこに行ってしまったのだろう。軽いというよりもちゃんとした表現にまでなっておらず、いかにも促成という印象。脚本も演出も練り上げ不足だ。

 奇形の女性ばかりの女郎屋。
 白子の女郎・コチョウの思いが乗り移った人形が、廃病院に暮らす医学生・志度に思いを寄せる。コチョウに入れ込む男は志度の上司の医局長で、そのために金に困り、志度は人形がくれるコチョウが稼いだ金を医局長に渡そうとする。

 そのような”連環”という構想はおもしろい。また、奇形の女郎屋、人形への乗り移り、女郎屋のDJ など、発想のおもしろさは十分にあるのに、舞台はいっこうにおもしろくない。それは、脚本も演出もそのような発想だけで満足していて、それを表現するためのアイディアなどの表現方法が貧弱だからだ。
 脚本では、奇形の女郎たちのセリフはまったく通り一遍で、その個性と思いの表現は弱い。彼らが外へ向かうのを志向するようになるのに、彼らの思いが丁々発止絡んで影響を受け合うということはない。そのよういな入り組まないセリフでボリュームもなく、さらりとしていてことばの魅力も薄い。コチョウ以外の女郎が本筋に絡まないというのもこの舞台を単調にしている。だからほとんど全編が状況説明という印象になってしまう。ほんとに、いつ本編に入るのかとイライラしてしまった。
 オープニングで本筋に関係の薄い廃病院がなぜか登場する。そのことで却って混乱させられてしまった。発想はどんなものでも多ければいいというものではない。このような効果を弱める発想は逆効果でしかなく、そのためにオープニングで観客をつかみ損ねてしまった。

 演出も弱くて、思わせぶりとも逃げているとも見えてしまうのは、脚本と同じように、やはり発想レベルで満足しているからだろう。
 階段状の客席を舞台に使い、後方のスタッフ室でDJがしゃべる。そのこと自体はおもしろいが、それが有効な表現になるまでのアイディアはない。そこは観客の頭で組み立ててやってよ、と言わんばかりなのが思わせぶりや逃げに見える。観客に甘えているように見える。
 奇形の女郎屋のおぞましさをなぜきっちりと描こうとしないのだろうか。コチョウと男とのセックスシーンは椅子の陰でやられ観客には見えない。だからそのおぞましさが中途半端で、コチョウの絶望感も、医学生と人形との純愛も際立たない。
 三坂恵美の歌は三坂恵美らしいドスがいまひとつ利いていなかったし、ダンスは振付も動きもかなりおざなりだった。

 そんなふうだから途中居眠りしてしまって、メガネが床に落ちてしまった。それをうしろの席の立石義江さんに見られてしまったんじゃないかと、ちょっと心配。
 この舞台はきょうとあすで4ステージ。80席の客席にはわずかに空席があった。


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