「奈良岡朋子ショー」になってしまっていた。アンサンブルが売りの新劇の舞台だが、残念ながらこの舞台にはアンサンブルはない。
奈良岡朋子とほかの俳優との差が大きすぎる。ほかの俳優は、旧来のナマクラな新劇演技で、奈良岡朋子と拮抗することはなく、引き立て役にまわってしまっていた。
歯科医で川柳作家の仁野六郎(西川明)は、治安維持法違反で東京を追われて神戸のホテル暮らし。
そこに、むかしの恋人・大内うらら(奈良岡朋子)が追いかけてきて・・・。
プロローグともいえる第一幕一場を除けば、昭和18年秋から19年春にかけての半年のできごと。小幡欣治の脚本は、ただただ一途な大内うららの生き様を、きびしい世相を反映させて描く。
しかし、小幡欣治の脚本らしいのんびりした明るさが全体を覆っていて、商業演劇の作家らしく、せっぱ詰まったり深刻になって破滅するようなところをうまく回避する。その分、大きく対峙するような要素は弱くなる。
だからといって適当に流していいはずはないが、奈良岡朋子以外の俳優が、なぜか適当に流しているように見えてしまうのはなぜだろうか。
奈良岡朋子と他の俳優との違いは、順目と見えるものに逆らうか否か、ということ。
例えば刑事役の高橋征郎の演技は、刑事のイメージをいかになぞるか、に終始している。だから、かんなをかけた板のようにすっきりとはしているが、希薄な人物像しかなく、何も引っかかってこない。
「そういうのが演技だろう」というのがまさに新劇の考え方だが、そんな自己完結した演技では相手役ともからめず、場面が膨らむわけがない。だから警察署のシーンはただの状況説明にしかなっておらず、おもしろくない。
奈良岡朋子は、順目にさからってゆさぶるという演技で、ありきたりのイメージをぶち壊してそのイメージの幅を大きく広げていく。だから、生き生きとした人物が立ち顕れてくる。
そんなふうで、奈良岡朋子以外の俳優の力がほとばしることはない。
プロンプターの声がモロに聞こえてきたりするのも、コンテクストが俳優にしみこんでいないためだ。民藝の俳優の演技は、今の演劇から完全に取り残されてしまっている。
結局うららは、従軍看護婦として招集されて終わる。ラスト30分は運命の過酷さを共有するだけの泣かせの舞台で、小幡戯曲の限界をみるが、もともと「奈良岡朋子ショー」の脚本だと考えれば、それでいいのかもしれない。
この舞台は、福岡市民劇場6月例会で9日から17日まで9ステージ。ラストステージを観た。満席だった。