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《2010.6月−12》

子どもだまし、ばっかり
【博多テクニカ女王街ラバー (ぎゃ。)】

作:田坂哲郎 演出:中村雪絵
26日(土) 19:30〜21:35 ぽんプラザホール 1500円


 まったくおもしろくないことはないけれど、前作では影をひそめていた「子どもだまし」が復活していて、ほんとによけいなことばかりしている。

 演出は脚本の子供だましを払拭できないし、その演出もまた、ゴチャゴチャしなきゃ演出じゃないとばかりによけいな遊びをしていて、わざわざ完成度を落としてしまっていた。

 明治時代の博多。商人・渡辺与八郎と妻の清子が失踪した。ふたりを探して清子の弟は、遊郭・トワヤにたどりつく。そこには、清子そっくりの明月という遊女がいた。

 脚本については、この作者が10代のころから退歩していることをはっきりと見せた。
 奔放というのは、勝手気ままということではない。この脚本は構成が弱く、整合性がとれないところも放置してごまかし、よけいなくすぐりだけでもたそうとする。
 博多に関するいくつかの話を、いかにもねじりあげて作品にしたように見せかけてはいるが、ただ話を並べて置いてみただけで、一体感あるドラマにはなっていない。
 ヒントは出さずに引っぱっておいて、ラスト近くに「実は実は」というは、ミステリーとしてもほめられたものではない。
 かと思えば、観客がわかっていることをあとから追っかけるというのも、白ける。それを狙ってやっているなら、書きようが変わってくるはず。

 そのような粗雑さで、発想をきちんとみせるということはなく、割り切れなさを残してしまう。
 女性化した冷泉がしゃべる「中央政府」ということばと、それから100年後まで生きのびる3人とが、何か関係があるのかな、という印象で終わるが、「中央政府」が出てくるのはそのことばだけ。
 推敲不足か書き込み不足か、いずれにしても「あれ?」というような状況が放置されるのは、観客に甘えているとしか言いようがない。そんな例がいくつもある。
 ほんとにこの作者、エピソードを繋ぎこんでドラマにするには、想像力が不足している。ドラマとして定着させるための構想力・言語能力も不足している。

 演出は、説明ばかりでつまらない脚本を、ぎゃ。調のにぎやかしで乗り切ろうとしたが、成功していない。
 前半は、遊びを排して、凝縮してテンポアップしてもよかったが、そうする前に演出としては、脚本の欠点を指摘して脚本を書き直させるべきだった。
 ゴチャゴチャと地べたを這いまわるような演出で、けっこうねばっこくストーリーを追いかけはしたが、脚本の欠点までをカバーしてドラマを立ち上げることはできなかった。
 それにしても、遊郭のシーンも含めて全体が茫漠としていて暗い。舞台美術や照明でもっとメリハリをつけるべきで、工夫の余地は大きい。
 シンプルになるまで練り上げてこその演出、というふうに、本来の演出ができた上でゴチャゴチャにするのならいいけれども、手抜きで最初からゴチャゴチャというのは願い下げだ。

 これは、2役を演じる三坂恵美のための舞台だといっていいくらいだ。
 まわりがよけいなことをいっぱいやってくれているから却って、その素直な演技が引き立っていて存在感があったが、もっと大きくのびのびとやってもいい。

 この舞台は24日から27日まで7ステージ。かなり空席があった。


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