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《2010.7月−14》

偽者が本物を描けるわけがない
【アームストロング・コンプレックス (ショーマンシップ)】

作:田坂哲郎 演出:田坂哲郎・木村佳南子
26日(月) 14:05〜16:10 甘棠館show劇場 1500円


 芸術家でもなく芸術家になろうとも思わない人間が芸術家を描くとどうなるか、ということを見せつけた舞台だった。

 幕末の残酷絵の浮世絵師・月岡芳年まわりと、明治末期の画家志望の冴木や明星まわりとを、雨宮家の離れという同じ場所を通して繋いでいく。

 ほんとに、脚本も演出も演技も基本がまったく押さえられておらず、非常に雑駁な舞台になってしまっていた。
 芸術家を登場させながらも、この舞台では、芸術家の生き様について何の想像力も働いていなかった。全編がこの舞台のつまらなさの「言い訳」という舞台で、この舞台にかかわる人の心象風景を如実に反映していた。

 脚本は、その構成も内容も中途半端で、ドラマと呼べるレベルには達していない。
 数十年を隔てたふたつの時代をもってきたのはいい。しかし、そのふたつの時代の芸術家やそのまわりの人々の思いが一向にシンクロしない。
 それは、ふたつの時代の繋ぎ方に問題があり、アートとオカルトというふたつの道を作ったことで、却って中途半端になってしまった。
 アートの道では、ふたつの時代の芸術家たちの志向が合わないというか、特に明治期の画家は志向などないちゃらんぽらんの人物であり、繋がりようがない。
 オカルトの道では、ポイントとなる静の描き方について、透視能力者の三田光一などをからませて、静が時空を超える存在だということを匂わせる。だが匂わせるだけで展開できない。
 どっちかに絞り込んだほうがよかったし、ふたつやるならそれらをうまく絡ませることで、普通におもしろくなるような展開は可能であったのに、そこまでは突っ込めない。

 地球儀もどきに大きな×(ばつ)をつけてヒューストンとか、あまりに子どもじみたエピソードのオンパレードで、観ているこっちが恥ずかしくなってくる。
 ドタバタでもファンタジーでもじゃんじゃんやってほしいが、くすぐりと悪ふざけがほとんどというのではどうしようもない。そんな調子で描かれた人物に存在感があるわけがない。ここに描かれたのは、くだらない現状に満足している「踏み出さない」人たちで、「踏み出せない」人たちとは違う。
 「兜」でふざける芳年や明星に芸術家を見ろというのがムリだし、「兜」はたまたまふたつの時代にあるだけで、芳年と冴木・明星を繋ぐような芸術上の意味はない。
 「月の掛け軸」は、こじつけすぎていて説得力がない。ただの思いつきを意味ありげにひけらかしすぎているだけで、まだ演劇上の素材にはなっていない。
 「月の裏側」に象徴される見えないもの。それを登場する画家たちは本気で見ようとはしないし、つまらないことばかりして遊んでいるから見えるはずもないし、ましてやオカルト系と絡むはずもない。ただ漠然と「見たいなぁ」と思っているだけというのは、この舞台づくりの姿勢と共通している。

 時代を区切って実在の人物を登場させるからには、その時代背景はそれなりに押さえておく必要があるが、その点もいい加減である。
 明治末期当時の画壇の状況からみて、日本画では岡倉天心が改良運動の真っ最中だし、洋画では青木繁が登場しようとしているこの時期に、芳年と繋がるような画家の存在意義は薄い。そのことを認識すれば、同じ「踏み出さない」でも、冴木・明星の描き方は変わるはずである。
 そういう基本的なところに加え、明治末期に地球儀が800円などと調べもせずに書きまくっていて、時代の雰囲気は伝わってこない。明治半ばまで芳年は生きていたとか、三田光一は大正の人間だとか言うつもりはないが、設定した時代をきちんと切り取るような時代描写は必要である。
 ほんとに、こんな姿勢でこんな駄作を1000編書いても決して傑作は生まれない。

 演出は、脚本の欠点をカバーするどころか、やるべきことをやらずよけいなことばかりして、脚本のつまらなさを拡大してしまった。
 観客に媚びたり観客に対して適当に理解してよという甘えた態度は見苦しい。壊れた地球儀の代わりに模写しようとしている球の大きさが、壊れた地球儀の大きさと全然違う。芳年の絵はちんけな印刷物だし、掛け軸も明星の絵も稚拙すぎて、ほんとにしらけてしまう。そういう粗雑さも含めて、ほんとに幼稚で手前勝手な演出ばかりだ。
 「踏ん張ったり飛び跳ねたりして、大声でがなれば観客に届く」と完全に勘違いしている。「がなり」はぷっつりと意識の流れを断ち切り、観客は、ぐいと前に乗り出すべきところをのけぞることになってしまう。演出は、そんな基本的なことさえわかっていない。

 俳優をこれだけそろえながら、それを生かせずにつまらない舞台になってしまったのは、俳優たちだけが問題なのではない。脚本と演出が俳優の悪い面を引っ張り出して強調してしまっていた。
 普通の演技をすればいいのだが、この脚本では演技のしようがないのか、「がなる」こと・飛び跳ねることが普通の演技だと思い違いをしているのか、あるいは受け狙いでやってしまうのか、極端な演技に走る。
 気になるのは、この舞台では俳優たちが、観客に届く「リアルな演技」とはどういうものかを考えた形跡がないことである。かって流行った「ド派手な演劇」では「ド派手」を納得させる内在するものがあったから飛翔できた。それもないのにがなったり飛び跳ねたりしたら逆効果だが、そんなことにも気づかない俳優の資質には疑問を感じる。
 とにかく俳優はこの脚本をきちんと読んで、演じるに値するかどうか考えた上で出演を決めるべきだっただろう。それができていない。

 述べてきたようなこの舞台の雑駁さは、表現の甘さを容認するこの劇団の姿勢が、この舞台の脚本・演出の甘さを積極的に是認していった結果だと言える。本来ならば、脚本の書き直しをさせるくらいのプロデュース機能が要るのだが、この劇団にはそういうものは見当たらない。
 甘棠館show劇場設立10周年記念公演と銘打たれているが、表現の姿勢が問われるようなこの舞台が、これからの活動の跳躍台になるはずがない。

 この舞台は22日から29日まで10ステージ。ウィークデーマチネを観た。満席だった。


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