いい戯曲だからといって、そのまま上演すればいいというものではない。演出は戯曲のおもしろさを、ちゃんと引っぱり出さなければならない。
だがこの舞台ではそれができておらず、ただ戯曲をなぞっているだけという印象の、大味な舞台になってしまっていた。
1980年、フランスのサーカス団長・フレディは、借金に行った先の高利貸しの老女から迫られて逃げ帰り、借金できなかった。
高利貸しのところを逃げ帰ったあと、高利貸しは殺された。功をあせる警部とともにフレディは、犯人と誤認させて警部に自分を逮捕させて、それをサーカスの客集めに利用しようとする。
サーカス芸の修得などの舞台づくりへの努力は評価できる。だが、舞台の流れとサーカス芸がうまく結びつかないし、話はギクシャクしていてすっきりしない。
会話劇だが、その会話がときほぐされておらず、くどすぎて鈍重になる。そのまま上演したのでは長くなってしまう翻訳の問題もあるので、戯曲の改訂があってもよかった。
そんな脚本の欠点を演出はカバーしない。
大きな転換点で、きちんと押さえたていねいな表現をするのではなくて、流してしまっている。だから、それぞれの場面がクッキリとしない。
場面の途中も同じような表現で、役の見せ場を作るような前時代的な演出まで挿入されて、舞台の流れにメリハリがなくなって平板になってしまった。戯曲のよさが引き出せていない。
本来ドキッとするべきところでドキッとしないのは、このためだ。
演技については、永井愛の戯曲の上演などを通して、小劇場の演技にまで進化していた演技が、元の新劇の演技に戻ってしまっていた。
あるべきと思い込んだ演技にこだわっていて、そこに押し込もうという演技で、生き生きとしたところが乏しくて、ひと言で言えば古臭い。この劇団の持っていた軽妙洒脱なところも消えていた。
市民劇場の例会だからそんな演技が好まれるなどと考えたとしたら大きなまちがいだ。あるべき演技について、もっと広く考えたがよい。
大好きな山下啓介も老けて重厚になってしまっていて、かってのユーモラスな演技が見られなかったのは残念だった。ただひとり安原義人だけがかろうじて、この舞台にふさわしい軽やかさを出していた。
この舞台は福岡市民劇場の7月例会作品で、福岡では13日から30日まで9ステージ。満席で、階段席の人がけっこういた。