俳優の身体を意識してアプローチしようとしているところはわかりすぎるほどにわかる。それがある程度成功しているところもある。
アプローチのしかたの出自が見えてしまい、その出自当てを楽しみながら観たが、ほんとうは、そんな出自を裏切り続けるようなパワーを見たかった。
大学生のアカネ(女)と大学院生のミドリ(男)は、ふたりでルームシェアしている。
ミドリは上海への2年間の留学が目前に迫っているのだが、アカネになかなか言い出せない。そんなときミドリが、テレビを知り合いの留学生にあげて、代わりに水槽を買ってきた。
男女ふたりのルームシェアだというと当然に同棲だと思ってしまうのだが、実はそうではない。そこがこの舞台のポイントであり推進力だ。
ここでは男女が親友という関係が成立している。その理由と、それでも少しは揺れ動くふたりの気持ちを描くことで、コミュニケーションのずれをうまく引っぱりだしていた。
そのための道具立てが劇団。その劇団の稽古で、しゃべっていることが突然意味不明になるという演出は、わかりやすい。
ただ演出は全般的に、私淑する演劇人の物まねと見えてオリジナリティに欠ける。
もっぱら物まねのネタがどこから来ているかというクイズでも解いている感じだった。おもしろくないわけではないが、これはほんとうのおもしろさではない。
まねは重要だし、物まねするなら徹底的にやればいいのだが、表現のレベルが低くて弛緩した印象が強い。狙いはわかるが、感動を生むところまではなかなかいかない。
言葉と身体がともにラフで、密度が薄い。その結果、言葉と身体が呼応しない。
言葉については、まだまだセリフがややありきたりで冗長。情報としての質もいまひとつで、緊迫度が低くて、この人たちの背後にあるものが立ち上がってこない。
身体については、アプローチの方向としてはいいが、繊細さ・鋭さに欠けていて、俳優の身体性そのままが表出されるだけで、役の身体性はなかなか立ち現れてこない。
だから、言葉と身体がバラバラで、微妙だが断固とした言葉と身体の連携は薄い。言葉と身体がもっと反応しあって結びつけば、そこにある世界が大きく広がるはずだ。
身体性についてはそれでも、アカネとミドリが絡み合うラストは見応えがあった。
どうしようもないものを抱えて、それを受け容れざるを得ない哀しみが、触れ合うふたりの身体からほとばしっていた。ここまでやれる劇団は、福岡ではここ以外にはない。
このような身体性の意識をさらに鋭敏にして、この劇団の表現を模索していってほしい。
この舞台は、きょうとあすで3ステージ。若干空席があった。