人の内面世界の広さ深さを垣間見せてれる舞台だ。
その内面世界へのアプローチが、「わが星」でのやり方とまったく対照的だったのもおもしろかった。
「あゆみ」という女性の一生を、8人の女優が次々に役を交替しながら演じる。
2008年に名古屋で初演されて、改定を重ね練り上げられてきた舞台の最終版。「あゆみ」は「わが星」と並ぶ柴幸男の代表作で、今回の「あゆみ」ツアーは福岡から始まる。ことしの福岡演劇フェスティバルの幕開けの舞台でもある。
イムズホール中央の10メートル×15メートルほどの空間を舞台にして、両側に合わせて200席ほどの観客席を設けている。
8人の女優が舞台中央に円形になって、リズムを取って歩き出すオープニングは「わが星」そっくりだ。全員でリズムに乗って、みごとなフォーメーションを切れ味よく切替えながら全体のイメージを表現するオープニングはすばらしい。
全体を通して音楽は一切入らないし、それどころか俳優が発する以外の音は一切発せられない。それでもオープニングでは、俳優が声や動作で作り出した“ビート”に乗ってテンポよく展開される。
やや長めのオープニングが終わると、上からの照明によって舞台上に1メートル幅の1本の道が現れる。その道は時にはもう1本交差させて十字の形になる。俳優たちはその道の上を歩きながら、「あゆみ」の生まれたときから死までを、速いテンポで頻繁に役を交替しながら描いてゆく。
子ども時代から学生時代、就職・恋愛・結婚・子育てから中年にかかり、夫の死。オープニングの後は“ビート”は消えて、役の交替はあっても比較的リアルな演技になってそれらの表現が長々と続くが、夫の死で一時“ビート”は復活。“ビート”のシーンが大きな段落を作る役割を果たす。
再び“ビート”は消えて回想シーンが演じられて、今度は比較的早く“ビート”が復活。それをもう一回繰り返して「あゆみ」自身の死を迎えて、終わる。
「わが星」と対照的なのは、「わが星」では「ちぃちゃん」という女の子を外側に大きく広げる(外挿)のに、「あゆみ」では「あゆみ」という女性の内面世界に分け入る(内挿)という、大きさの方向性の違いだ。
“ビート”には舞台を凝縮するのに効果的で、外挿にはなじむが内挿にはなじまない。だからこの舞台では、多くは“ノンビート”で進行し、“ビート”のシーンは段落のい大きな区切りだけに使われることになった。
その“ノンビート”のシーンには、内挿のための仕掛けが施されている。人、時間、物語に裂け目を作って、その裂け目によって内面世界の広さ深さに迫る。
セリフの言葉は、誰にでも経験のあるようなことを書いて、シンプルに磨き上げられている。そのセリフを、短ければ数秒、長くても十数秒で、演じる俳優を替えながら進めていく。これは、「わが星」の全編“ビート”にも匹敵するような縛りだ。その結果、俳優の個性の影響を受けて役の個性はぶれる。
舞台上で時間は頻繁に遡行し繰り返され、繰り返しのなかで人も物語りも微妙に変化する。そのことが別の時間、別の物語を感じさせる。別の物語を示唆する具体的なセリフがあり、十字の形の分かれ道がそれを象徴的に示す。
そこでは単一に見える人、時間、物語が解体され再構成されて提示される。エピソードではなくシーンで語る柴幸男の真骨頂だ。
今回の観劇では、「わが星」と、映像で見た「四色の色鉛筆があれば」(2009年1月上演)の「あゆみ」(出演者3人で上演時間25分)の印象が強かったために、上記のようなことに気づくのが遅れてしまった。もう2、3回は観てみたい舞台だ。
この舞台は、福岡ではきょうとあすの2ステージ。満席だった。