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《2012.5月−5》

内容は斬新、表現は漸進
【現在地 (チェルフィッチュ)】

作・演出:岡田利規
6日(日) 13:35〜15:15 イムズホール 共通チケット15,000円


 岡田利規が「フィクション」へと大きく変換をしたこの舞台は、内容的には斬新でも表現はそれほどは変わらず、研ぎ澄まされた舞台だった。

 ある日ムラの上空に出現した大きな雲をめぐって、それがムラの滅亡の兆しであると見る者と、そうは見ない者に、住人たちの意見は分かれる。

 平土間にテーブルが6つとイスが12。奥の上手と下手の大きな柱に梁が乗っていてアーチになっている。中央にも大きな柱があって、俳優がそこを横切ると場面が変わる。上手の柱と中央の柱の間にスクリーンがあって、天体や雲の映像が鮮明に映しだされてゆっくりと変わっていく。
 人物は7人で全部女性。それぞれの役に名前があるというのは岡田利規の舞台では初めてだという。2、3人での会話シーンが多く、そこで演技していない俳優はイスに座って演技を眺める。

 大きな雲は出なかったという意見もあるが、主な意見の対立点は、大きな雲がムラの滅亡の兆しと信じるか信じないかという点。その対立のために失踪や殺人まで起きるが、滅亡を信じてノアの箱舟で逃げた人々も、滅亡を信じずムラに残った人々も、ともに助かる。
 ストーリーを書いていけば壮大なフィクションにも見えるが、舞台の表現は繊細というか薄くて微妙なものが多く、骨太の演技やダイナミックな転換はない。岡田利規の舞台で初めての殺人までもが、いつの間にかなされてしまったという印象だ。
 この舞台の売りは、岡田利規が「フィクション」に大きく転換するということ。だが、舞台は明確な因果関係をもって動いていくわけではないし、人物もそれほど主体的には動かない。しゃべりもリーディングのように単調で、表現については大きく変わったという感じはない。
 そのような内容と表現の乖離をおもしろいとみる見方もあろうが、わたしはなかなかついていけず違和感を感じた。それはわたしが「フィクション」に期待し固執しすぎたためだろう。
 非常に印象深く突き刺さってきたのは、滅亡を信じた人々も信じなかった人々も、等しく助かるということ。「現実」と「フィクション=オルタナティブな現実」を、どちらが「現実」か「フィクション」かはっきりさせずに、どちらも肯定しどちらも存在させてしまう。複数の現実の存在だ。これにはとても強いメッセージを感じた。
 何かを仮託する「フィクション」はメッセージ性とは不可分の関係にあり、それを岡田利規は選び取った。そのメッセージ性が、この舞台における岡田利規の顕れ方のいちばんの変化だ。

 岡田利規は、「これまでフィクションに対して完全に懐疑的だったのに、突然それが信じられるように思えてきて、絶対にフィクションを作らないといけない、と思って取り組んでいる」と言い、「現実を活写することに意義が感じられなくなってきて、現実に拮抗して現実に緊張関係を与えるフィクションのほうが何十倍も重要だし、この現実を脅かすものをつくらないといけない」と言い、「演劇というフィクションを批判したり疑ってみたりすることで自分の演劇はある意味進化してきたが、もう懐疑によって進化に荷担するというのからは降りようかな」と言い、「なぜ人類が演劇というフィクションを数千年も続けてきたのかに興味がある」と言う。「演劇は現実のために有効だから、演劇を有効なものにする必要がある」と言うが、この変化には3.11の影響が大きい。
 どのように演劇というフィクションに立ち向かおうとするのかを知りたくて、アフタートークで岡田利規に、日本の戯曲に興味があるか訊いてみた。そんな短いスパンではなくて2千年スパンでギリシアから今までだ、という答えだった。日本語に敏感な岡田利規の答えとしてはちょっと意外な感じがしたが、それはわたしの勝手な思い込みだろう。今後どんなアプローチをしてどのように変わっていくのか注目したい。

 この舞台は福岡ではきょうとあすで3ステージ。少し空席があった。


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