戯曲を素直に捉えて素直に演出していて、技量的には高くないが素直な演技を引き出していて、発展途上ではあるが素直な舞台になっていた。
アメリカ東北部のニューハンプシャー州の人口3千人ほどのありふれた町グローヴァーズ・コーナーズ。そこに隣り合わせて住む医師のギブス家と新聞編集長のウェブ家。
20世紀初頭の10年ほどの期間を、「日常生活」「恋愛と結婚」「死」の3幕で、ギブス家の長男とウェブ家の長女の結婚を中心にすえて、町の人びとの生活を描く。
ワイルダーのこの戯曲は、したたかな構造をもっているがゆえに名作となっている。
グローヴァーズ・コーナーズは架空の町ではあるが、時間と空間は非常に具体的にピンポイントで提示される。その典型的なピンポイントを通して、時間は遠い過去から未来まで、空間はこの町から宇宙へと、大きく広がっていることを感じさせる。そのための仕掛けが周到にセリフに込められている。
叙情的に見えながら叙情的を超えたものがあるからこそほんとの叙情に到達できる。だから、いかに浅い安易な叙情性を排していくかがこの戯曲の上演のポイントになる。
この舞台は、浅い安易な叙情性に流されていない。そこをきちんと意識して作られていることが、素直な演出や演技と感じられた理由だろう。
感情を込めて情緒的に盛り上げようとしたらそれも可能な戯曲だ。しかし、それをやってしまったらいちばん大事なものが抜け落ちてしまう。そのことを意識して演技は淡々としたものに押さえられている。この劇団はミュージカル劇団のようだから、大仰に流れがちな演技をなんとか繋ぎとめているという印象がある。ケイコ不足もあってか演技は全体的に高いレベルとはいえないが、東京からの参加も含めた中心となる俳優たちは人物の存在感を表現している。
そういう方向性はいいとしても、いろいろ不満も多い。
テンポが悪くてややギクシャクするのは、舞台を広く使いすぎていることも原因している。西鉄ホールの広い間口いっぱいを使わずに、もっとコンパクトにしたがいい。
案内役を原作の「舞台監督」から変えて「作者自身」としていたのは、原作のメタ舞台としての構造を壊していて明らかな改悪だ。メタ舞台という面では、俳優たちは町の人として常時舞台にいて演技者を見つめていたほうがより自然なような気がする。そのほうが観客もたぶんこの町の住人の視点になりやすいだろう。
第3幕が終わったあと、スペシャルフィナーレがダンス6曲で約15分。ミュージカル劇団の発想かもしれないが、これは本編の印象を弱めてしまい逆効果だ。
この舞台は福岡演劇フェスティバル参加作品で、きょう1ステージ。かなり空席があった。