多彩なたくさんのアイディアが凝縮されていて、密度の高い見応えのある舞台だった。
男性陣が全員“前張り”だけというのはインパクトはあるが、そこだけにとどまらない舞台作りで「銀河鉄道の夜」の世界をみごとに表現していた。
ジョバンニとカンパネルラが銀河を旅する宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を、“前張り”だけの俳優たちが演じる。
観終わったあと飽和状態が高じて、ほとんど虚脱状態になるほどに印象が強い。
それが“前張り”のためだけではなかったことは、とりあえず寝てしまって翌朝起きて思い起こしてみて、“前張り”の印象はほぼ消えて「銀河鉄道の夜」の印象がクッキリと残っていることからもわかった。
一見ガラッパチなのは表現を拡げる仕掛けが多いためだが、たくさんの仕掛けが十分に計算されて埋め込まれていて、そこからパワーが噴出してくるという印象の舞台だ。
裸舞台。しつこいくらい作りこんだ大がかりな装置を使うこの劇団の本公演とは大きく異なる。
役者は8人で、うち男性俳優は局所だけを肩パッド2枚で作った“前張り”で隠すが、タイツほどにはモッコリ感はない。“前張り”は2本の紐で肩から吊るされ、腰に回した紐で安定させる。“前張り”の色が肌色に近いため、ほとんど全裸に見えるシーンも多い。
舞台は、アングラっぽいところもある80年代のド派手な小劇場演劇そのものの雰囲気。生身の俳優の身体性中心で作っていって、ライブハウスやイベントで上演されるこの舞台では、ストリートから出発したこの劇団の持ち味が発揮されている。ド派手な小劇場演劇という雰囲気は、デコラティブな本公演よりも強く顕れている。
前説も兼ねたオープニングで丸尾丸一郎の歌が2曲。
本編では男性俳優陣ははじめから“前張り”ではなくて、開幕してから舞台上で脱いで前張りだけになる。
小柄なジョバンニ役の菜月チョビだけはそれらしい服装。裸体の6人の男性俳優との異質さで、ジョバンニの疎外感が際立つ。イジメに近い揶揄などで傷つけられるジョバンニの寂寥感もよく表現されている。そのジョバンニの寂寥感をさらに強調するのが、カンパネルラのバンドの祭りでの演奏。観客を楽しませながら舞台効果を高めるうまい仕掛けだ。
動きの激しいダイナミックなシーンが多いが、繊細な表現もある。カンパネルラがジョバンニのことに心をかけるシーンは丸尾丸一郎の表情だけで見せる。
ただ全体的にはショー的な要素が強くて、あまり溜めることはなく場面はスピーディに転換していく。情緒的に盛り上げることはないが、溺れたザネリを助けたカンパネルラが死んでしまうシーンを挿入するなど、具体的なイメージを強化していて幻想に逃げ込まない。終盤に登場する尼さんは、キンキラ衣装と高尚な議論でちょっと突き放して、舞台をちょっと異化してみせる。
男性俳優たちの裸身はきれいだが、どこかユニセックスの雰囲気もある。身体能力というよりも、路上などで鍛え上げた観客を惹きつける表現能力の高さのほうが目立つ。文字どおり身体全体でする表現がシンプルな舞台を満たしていた。
多くはないけど映像も使われるが、それは人のパフォーマンスを阻害しないように抑えた使い方だ。音楽は、自分たちでちゃんとアレンジしていて、人を喰ったパロディなども自在に行っている。カーテンコールでは2曲披露。観劇後の高揚感をうまく着地させてくれるかなと思ったが、そう簡単には着地できなかった。
ほんとにそんなふうに、たくさんのアイディアを80分ほどの中に、緻密に計算して最適な組み合わせで凝縮している。
その緻密な計算は、「銀河鉄道の夜」をいかに表現して伝えるかという目的のためになされている。大きくデフォルメしているように見えるところも、そういう基本線は崩していない。理解を助ける若干のアレンジもあえてやる。その結果、「銀河鉄道の夜」の世界がみごとに展開されていた。
この舞台は福岡ではきょうとあすで2ステージ。満席だった。