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《2012.5月−10》

うまい工夫があって、おもしろい舞台
【表裏一体 (最新旧型機クロックアップ・サイリックス)】

作・演出:川原武浩
20日(日) 18:10〜19:30 湾岸劇場博多扇貝 2,000円


 うまい工夫があっておもしろい舞台だった。
 単調に小ぶりに見えてしまうのが惜しいが、それはどうやら演技に問題があるようだ。

 朝起きるのが1分遅れてたために欠勤してしまう女。
 退屈しのぎに外に出てみると、若者と老人が賭け将棋をしているところに。

 ほぼ80分の舞台が、前半の40分と後半の40分に別れ、前半に将棋でやられたと同じことが、後半オセロで繰り返される。
 登場人物は3人だけ。舞台中央に直径2メートルほどの回り舞台は2面に分けられ、いかにも表裏一体という舞台。その回り舞台を頻繁に回し敏捷に場面を切り替えて、テンポよく舞台を進めていく。

 前半はかなり単調でだんだん退屈になってくるが、後半の繰り返しになってようやく面白味が出てくる。
 女は起床が1分遅れたために、遅れが「増幅」して会社に着くのが30分以上遅れて遅刻してしまうので女は欠勤を決め込む。「増幅」はオセロの手についても語られ、内包するトラブルの素が「増幅」されて大きく影響し、時には破綻にまで至ることが示唆される。
 「増幅」とともに、現実の中にある、将棋の「千日手」のような逃れられない「無限ループ」もまた示唆される。

 そのような持続する現実のなかで、いま露わになってきていることの原因はずっと昔にあった。そして、いま原因を作っていることが避けられない未来として、何の前触れもなく顕れることが語られる。
 そう、川原武浩は3.11について語っているのだ。前触れもなく顕れた地震のあとの瓦礫のなかでもなお続くオセロが象徴的だ。

 そんな舞台がなぜか単調に見えてしまうところがあるのは、演技に問題がある。
 繰り返すことで舞台が一気に抽象化して、大きな風景が浮かび上がってくる―はずなのだが、そういう予感はあっても残念ながらそうはならない。それは演技が抽象化についていけてないからだ。
 女を演じる ぽち は抽象化をかなり意識した演技だったが、若者の上瀧昭吾と老人の長岡暢陵にはその意識がほとんど見られなかった。感情むき出しの演技には、セリフが構成している抽象的な層という認識はなく、そんなセリフが身体化されることもなく、どのセリフもみんな同じように吐き出されるだけで、大事なものがほとんど伝わってこないもどかしさを感じた。

 この舞台で川原武浩健在を確認できた。3年半ぶりの新作で、クロックアップサイリックスとしては2年ぶりの公演だが、もっと新作と公演数を増やしてもらいたい。
 この舞台はきのうときょうで6ステージ。ほぼ満席だった。


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