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《2012.9月−5》

緊迫感乏しく、かなりたいくつ
【水をめぐる3 (こふく劇場)】

作・演出:永山智行
9日(日)14:05〜15:35 ぽんプラザホール 2,500円


 ラストの辻褄合わせでなんとなくわかったような気にはなるが、全体としてはかなりたいくつだった。
 表現形式が未完成なためかうまく表出できずに説明に終始していて、緊迫感の乏しい舞台だった。

 川から流れてきた子どもを、老婆はすくい上げて育てた。成長した子どもは成長して娘をを生んだ。その娘のところに川の源を知りたいという男が来る。

 「水をめぐる」シリーズの面白さはかなり中途半端だ。その理由は、伝統芸能の力への認識の甘さからくる表現方法の弱さにある。
 伝統芸能の持つ瞬発力と持続力のいずれもが舞台から感じられない。伝統芸能を手がかりにしたといいながら、そのいちばん豊穣なところを舞台に生かしていない。
 そんな典型例を挙げれば、俳優が舞台への登場と退場の時に使う鶏のような歩き方である「カライ」だ。その動きに意味はなくそこに観客へのメッセージはない。そのような一見伝統芸能風の意味のない動きが演技を席巻していて、それが多様な表現を制限している。

 「水をめぐる3」はどうだったか。一筋の河の流れと人々の生の連鎖を重ねて、死を見つめることで生のいとおしさを謳いあげようとする舞台ではある。
 舞台の基本部分は他の「水をめぐる」シリーズと変わらないが、この舞台では下手奥から上手前まで舞台を対角線上に川を表す長い布が置かれている。
 話は2、3分から10分ほどのシーンに分けられていて、その区切りに「カライ」が使われる。俳優は4人で、うち3人が楽器の演奏を舞台に出ていないときに交替で担当する。舞台に出ずっぱりなのは祖母役だけで、舞台中央の水槽の前にずっと座っている。
 そのような演出上の工夫はあるものの、観ていてイライラが募る。事実がただただ提示されるだけで、乗り越えるべきものがなくてそれぞれのシーンがうまく結びつかない。ラスト近くまで収束の糸口は見えず放り出されたままだ。

 ラスト近く、洪水が出てきて死者の話が出てくると、この話が3.11を受けているということがわかってくる。
 確かにその伏線はないこともなかった。「河がことばを呑み込んでいる」とか「むかし生きていた人たちは今どこに?」というセリフはあったが、これらのセリフがクッキリとした印象を残して結びついてこのドラマを支えているかというと、そうでもない。それは、これらのセリフが表現にまで高められておらずに説明で終わっているからだ。
 ラストに強く打ち出されるなくなったものへの思いはわかるのだが、それもやはり説明であって、言葉は表現にまで高められておらず身体表現ともマッチせずに、ちぐはぐなままだ。クールな「水をめぐる」にしては珍しくラストは俳優たちの絶叫するような演技だが、シュプレッヒコールに聞こえた。老婆が立ち上がるなどの魅力的な演出もあったが、それらは単発に終わってしまった。
 伝統芸能を手がかりにした形式はまだ表現を獲得するには至っていない。

 この「水をめぐる3」は福岡ではきのうときょうで2ステージ。少し空席があった。観客は演劇関係者がほとんどのようだった。


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