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《2012.9月−13》

疾走感が楽しめるが、甘さも
【無差別 (柿喰う客)】

作・演出:中屋敷法仁
28日(金)14:05〜15:35 イムズホール 3,500円


 いっぱいの趣向を詰め込んで、日常からかけ離れた世界を圧倒的なスピードで駆け抜けたという舞台で、楽しめた。大きな構成で展開する物語には、3.11からの再生へのメッセージが込められている。
 だが、その大きな構成がどこか甘い。たくさんのテーマを詰め込みすぎていてそれぞれが際立たず、エピソードの繋がりもいまひとつだった。

 時代は戦中。食用の赤犬を捕まえ捌く一族は穢れたものとして人間扱いされなかった。その穢れから妹を守ろうと赤犬から遠ざける兄。兵士になりたい兄に村人は、山の神である大楠の神木から大枝を切り取ってこいという条件を出す。

 戦中と古代という時間が入れ混じり、神話や伝説を題材にした大きな構成の舞台が、疾走感をもって展開していく。穢れと差別、土俗信仰と土俗芸能、天神信仰、戦争、天皇制、原爆と原発、創生など、重すぎるテーマがこれでもかとばかりに詰め込まれている。
 多彩な表現パターンを持つ中屋敷法仁だが、ここはリアルな表現をいったん封印し、手を変えて神話の世界に遊んで才気煥発、独自な幻想の世界を作り上げてはいた。

 舞台には高さの違う黒い7本のポールだけ。それぞれのポールはいちばん高いポールから放射状に鉄棒で繋がれ、俳優たちは時にそこに登って演技する。
 俳優は7人で、それぞれメインの役以外に多くの役を演じる。シンプルな衣装は全員黒。切れのいい場面転換に合わせて一瞬にして役を切替える。
 男性俳優1人によるプロローグとエピローグの語りは、レトリックの利いた魅力的なセリフをしっとりと語って神楽の神迎え・神送りのような趣向で、この舞台全体が神に捧げる民俗芸能に見立てられている。本編に入ると、かなり荒唐無稽な話が前倒しにどんどん展開していく。
 山の神である大楠の生贄となった手の無い雌モグラが、雄モグラに1回セックスさせる代償として穴を1掘りさせ、一晩で大楠の根元は空洞になって大楠は倒れる。その笑えるシーンもわずか1、2分でドンドン先に行ってしまう。そんなスピードだ。
 祟り神であった天神様の話や盲目の舞踊者・真徳丸の話もかなり駆け足。天神様の教唆で祟り神と化した大楠の倒れた幹からは生えたキノコが世界を滅ぼしてしまう。そこからの兄妹による世界の再生を示唆して終わる。

 そんなふうに、ぶっ飛んでいく話は楽しめはした。ただ、観ていてどこか醒めていて大きく持って行かれることはなかった。
 観客の感情移入の拒否は意図的にやられているのかもしれない。ただただ展開する話の、その表面をちょっと引っ掻いくだけで、ためることをしないで先へ急ぐ。展開する話はどこへ行くのか、荒唐無稽でなかなか取りつく島がなくて漂う。
 観ていて醒めてくるのは、ありすぎるほどのテーマそれぞれについての突込みが弱く、エピソードがやや子どもじみていることもある。意表を突いて引っぱっては行くがどこか軽くて、深いところまでなかなか響いてこないのだ。神話や伝説の力はもっと多様で激しいはずだが、アプローチが弱くてその力をつかみ出せていない。もう一歩の掘り下げがほしかった。
 エピソードを繋ぐものが弱いと感じたのは、そのようなそれぞれのテーマの掘り下げ不足も関係している。そのために唐突な展開になって、なかなか作品の芯が見えてこないもどかしさを感じた。

 それぞれのテーマについて見ていこう。
 差別については、ふつう「人」に付随するものを「こと」に付随するものとして若干ずらしてはいるが、天神様や真徳丸についてはかなり安易なイメージ借りに終始している。キノコも単なる連想でしかなくこじつけ気味だ。天皇制のところは言葉でさっと説明してしまう。奉納舞にも工夫がなくて期待はずれだった。
 ラスト近く、用無しの穢れものとして兄妹は穴に落とされる。そこだけ舞台のテンポが突然スローになる。大きく感情が揺さぶられたのはこのシーンがいちばんだった。全体的にはそのような緩急がほとんどなくて一本調子に感じられた。
 この舞台、1970年代ごろのアングラ芝居の匂いがあった。中屋敷法仁らしい才気に溢れた舞台ではあるが、まだまだ十分には攻めきれていない。

 この舞台は福岡ではきのうときょうで3ステージ。かなり空席があった。


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