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《2012.10月−8》

戯曲の魅力、引き出せてない
【あなた自身のためのレッスン (富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ)】

作:清水邦夫 演出:多田淳之介
21日(日)13:05〜15:35 北九州芸術劇場 中劇場 2,000円


 既存戯曲の上演としては、捉え方が弱くて戯曲の魅力を引き出せていなかった。

 記憶喪失の男女3人が市民会館に逃げこむと、彼らの家族と名のる男女が現れる。会館に住み込む管理人夫婦を巻きこんで、3人の記憶を再生するための家族ごっこが始まる。

 中劇場の舞台奥に100席ほどの客席が設けられ、舞台で演じられる演劇を舞台奥から観るという形になる。
 よくある舞台上客席と違って、この舞台には舞台上に客席を作る必然性があり、演出家は自分の劇場で舞台上客席をやるという発想からこの戯曲を選んだのではないか。舞台上客席はおもしろいけれど画期的というほどではない。

 清水邦夫のこの戯曲は1970年に俳優座で初演されている。俳優座で上演された清水邦夫の戯曲としては「狂人なおもて往生をとぐ」(1969)についで2作目になる。
 清水邦夫は当時、蜷川幸雄に「心情あふるる軽薄さ」(1969)、「想い出の日本一萬年」(1970)を書き、その新宿文化での上演の衝撃は社会現象にまでなった。その2作に比べると俳優座に提供された戯曲は若干色合いが異なり、俳優座で1960年以前から上演されていた安部公房の戯曲の流れに繋がるものといえる。
 多田淳之介はリーフレットに載った松井憲太郎との対談で「今回、この戯曲を新劇の人がやると、すごく劇っぽくなっただろうなという感じはしてますね。セリフをうまく言えば言うほどわざとらしくなっただろうなという…。」と言っている。演出者が「新劇」を非常に狭いものとして捉えているのがわかるが、1970年代の演技の捉え方にも同じような傾向があり、そのような先入観が戯曲の魅力を十分に引き出せずに、この舞台をどこかひ弱なものとしてしまった原因だろう。

 戯曲はレトリックを駆使し知的に構築されていて決してわかりやすくはないが、大きな構造があることを感じさせられる。いろいろに解釈ができるものを強引にでも捉えて再構成して、大きな構造を露わにしてこそこの戯曲の上演だろう。
 そのような戯曲の捉え方は不十分で、演出は戯曲の字面をなぞったという印象だ。だから長い舞台の大部分はおもしろくなくはないがそれなりで、ラスト30分の謎解きで一気に突破するといういびつな形になってしまった。そのラストは、演出者のいう1970年代からの俳優たちの演技に助けられているが、だからといってその俳優たちの力を十分に引き出しているとはとても言えない。ホール管理人夫婦の「パムパム」「ダシダシ」がほとんど印象に残らないほどに弱いことからもそれがわかる。

 この舞台は「芸術監督がキラリふじみのレパートリー作品を創造するプログラム」の第1弾として、昨年に富士見市民文化会館キラリふじみで上演された舞台の再演で、北九州ではきのうときょうで2ステージ。ほぼ満席だった。


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