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《2014.11月−16》

戯曲の魅力は引き出されていた
【黒んぼと犬たちの闘争 (福岡演劇工房)】

作:ベルナール=マリ・コルテス 演出:菊永拓郎
30日(日)14:05〜16:15 甘棠館Show劇場 招待


 「シリーズ・ヨーロッパ演劇の現在」としてヨーロッパ演劇の最高峰の戯曲に挑んだこの公演は、不完全な上演で不満な点も多かったが、コルテスの戯曲の魅力は引き出されていた。

 フランス人の現場監督ホルンが婚約者レオーヌを連れて、パリから西アフリカの公共事業の工事現場に戻ってくると、兄弟が事故で死んだと聞いて黒人のアルブリーが遺体を取りに来る。遺体はそれを殺したカルというホルンの部下によって下水に捨てられていた。ホルンはアルブリーを懐柔しながら、カルには下水の死体を探させる。

 レオーヌをめぐる四角関係のすさまじい愛憎劇だ。レオーヌは、年配で不能のホルンに付いて西アフリカまで来たが、誠実な黒人のアルブリーに惹かれ、粗暴なカルからは猛アタックされる。ホルンとカルの間にはホモの気配がある。そんな愛憎劇が、厳しい差別に晒される現地人とフランス人との対立のなかで描かれていく。
 1989年に41歳の若さでエイズにより亡くなったベルナール=マリ・コルテスの代表作のひとつであるこの戯曲には、世界各地を旅した経験や同性愛の経験が反映している。舞台はコルテスの多くの作品と同じ西アフリカで、砂漠だらけという自然も剥き出しなら、欲望渦巻く植民地で人心も剥き出しにされるという環境だ。本国のような生ぬるい環境ではないから、題名で“犬たち”と呼ばれるフランス人たちの醜悪さも際立つことになる。
 ほとんどを2人の会話の組み合わせで進めていく。会話はいずれもガチで緊張に溢れているから、それぞれの場面は屹立していて強い印象を残す。この舞台ではそのような戯曲の魅力を感じることができたから、不完全な上演で改善の余地は多かったけれど、「シリーズ・ヨーロッパ演劇の現在」と銘打ってヨーロッパの演劇を紹介するというこの公演の目的は果たし得ている。

 裸舞台の上手に簡易なテーブルとイスとスタンドライトがある。開幕すると演出の菊永拓郎が出てきてイスに座る。アルブリー(高田一彦)とレオーヌ(伏見美穂)がひっそりと登場して明るくはない舞台奥に立つ。菊永拓郎が台本を見ながら語り始めるのは、ト書きではなくて、メインの役であるホルンのセリフだ。すでにホルンとアルブリーの会話に入っている。そのままホルンとレオーヌの会話に移る。アルブリーもレオーヌもほとんど動かないでセリフをしゃべるのでほとんどリーディング公演の趣だが、アルブリーとレオーヌにはそのようなシーンが多くて、カル(小山椋汰)には動き回りながらしゃべるシーンが多い。
 ホルンに俳優を当てないで菊永拓郎の語りで対応したというのは、演出上の意図というよりもホルン役の俳優が見つからなかったための苦肉の策だろう。いちばんセリフの多いホルンが動かないために、ホルンとの会話が相対してなされることはない。また、ホルンのしゃべりが棒読みに近い上に噛むから、狙っていない異化効果がバシバシ顕れる。そんなふうに動きをつけたリーディング公演という態で、不完全な上演であるという印象は免れない。

 それでも舞台はおもしろい。キレのいいセリフとみごとな場面構成でグイグイと引っぱって行って、戯曲の強い構造がじわじわと浮かび上がってくる。佐藤康によるこなれた日本語への翻訳もみごとだ。
 演出と演技には不満な点が多い。舞台は暗くてスモークが焚かれて湿潤だが、西アフリカは乾燥していて空気は清冽でものすごく明るいはずだ。もっと工夫して、そんな明るさのなかにある暗さを表現してほしかった。アルブリーと対照的にしようとカルのメークを極端にし演技を大げさにしていることも違和感があった。大げさな演技はロボットのような動きで空疎で硬くて軽い。絶叫調で感情をぶつけるが白けるだけだ。そういう演技はスタニスラフスキー・システムとは対極にあるはずだが、そんな演技が多すぎることが気になった。

 そう、「福岡演劇工房」がスタニスラフスキー・システムによる上演を目指すと標榜していることは特筆すべきだが、この舞台ではスタニスラフスキー・システムが取り入れられて効果を上げているという印象はほとんどなかった。でも、地元演劇の上演で拠って立つ演劇メソッドが標榜されることはかってなかったから、スタニスラフスキー・システムを標榜することはそれだけで画期的だといえる。
 30年ほど前には福岡の主要な3劇団は西日本リアリズム演劇会議に参加していたが、そこでいう“リアリズム”(社会主義リアリズム)は、演劇メソッドと呼べるものはなかった。日本におけるスタニスラフスキー・システム研究が、主に社会主義リアリズムを補強するためになされたことは、スタニスラフスキー・システムの見方の幅を狭めてしまい、演劇メソッドとして不幸だった。1990年代以降の新劇の急激な衰退は、新劇のそのようなスタニスラフスキー・システムの捉え方とも関係している。演劇メソッドの基本中の基本であるスタニスラフスキー・システムだが、スタニスラフスキーの「俳優の仕事」の第三部が日本で翻訳・出版されたのは21世紀になってからだ。

 菊永拓郎は、文学座附属演劇研究所、マンチェスター大学応用演劇科修士課程で演技と演劇学を学んだあと、2009年〜2012年にサンクトペテルブルグ国立演劇アカデミーでスタニスラフスキー・システムによる俳優育成・舞台演出を学んだ。スタニスラフスキー・システムを実践するために「福岡演劇工房」を立ち上げ、第1回公演として昨年7月に「黒んぼと犬たちの闘争」のリーディング公演を行った。その公演は本番を観ることができなかったのでゲネプロを見せてもらったが、訓練されていない俳優での本格戯曲の上演の困難さを思った。
 上演する戯曲がコルテスによる現代演劇なので、スタニスラフスキー・システムを突き抜けたような表現も必要になろう。そのあたりがどこまで実現されているかに注意しながらこの舞台を観たが、まだまだ入り口に立ったばかりだという印象だったのはやむを得ないだろう。

 この舞台は28日から30日まで4ステージ。満席だった。


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